10.JR貨物
今回はJR貨物です。トラックに押される一方だった貨物列車が、環境に優しい輸送手段として注目されています。エコな輸送手段に再び脚光
かつて荷物を運ぶといえば鉄道で、今の宅配便のような荷物は「チッキ」と呼ばれた。荷物を送るときは大きな台ばかりのある駅の「手小荷物貨物取扱所」に出向き、ふるさとの香りを都会に送り届けたものだった。私が駅長を務める西大川駅には、今も取扱窓口の跡が残っているぞ。旧国鉄はピーク時の1964(昭和39)年に2億660万トンの貨物を運び、日本の高度経済成長を支えた。しかし同年の東京オリンピック開催で幹線道路の整備が進むと、荷物を積み替えなくて済むトラック輸送に物流の主役を奪われていったのだ。
一方、鹿児島県内で貨物列車を引っ張る電気機関車「EF81」形は鉄道ファン注目の的だ。旧国鉄時代から走り続け、その雄姿を収めようと沿線で待ち構える鉄道写真撮影の愛好家「撮り鉄」が少なくない。
近年、ドライバー不足や二酸化炭素の排出量を減らすため貨物輸送をトラックから切り替える「モーダルシフト」が進み、鉄道貨物は再び脚光を浴びるようになった。JR貨物は2004(平成16)年3月、増える需要に対応するため、鹿児島駅(鹿児島市)を「鹿児島貨物ターミナル駅」にリニューアルした。貨物列車はこれからも、鹿児島から全国へ、荷物とともにそれぞれの思いを運ぶだろう。
小学生のころ、走ってきた貨物列車に道路から手を振る私に、短い警笛で答えてもらったことは今も良い思い出になっています。
9.JR嘉例川駅
今回はJR九州肥薩線の嘉例川駅(霧島市)を紹介します。山あいの木造駅舎には、多くの観光客が訪れます。人呼ぶ県内最古の木造駅舎
嘉例川駅が開業したのは1903(明治36)年。駅舎は開業当初からの木造建築のままで、大隅横川駅(霧島市)と並んで鹿児島県内で最も古い木造駅舎だ。2006(平成18)年には国の登録有形文化財となった。山あいの無人駅が脚光を浴びるようになったのは03(同15)年1月。地元公民会が開業100周年を記念して祝賀会を開いたところ、1000人を超す来場者でにぎわった。以来、レトロな駅舎が注目されるようになり、嘉例川地区活性化推進委員会(山木由美子委員長)が3月にひなまつり、7月には七夕まつり、11月には収穫祭、12月にはクリスマスイベントと季節ごとに駅でイベントを開く。地元の旬の味を振る舞い、近くの中福良小学校児童らがステージなどでイベントを盛り上げる。
嘉例川駅といえば観光大使「にゃん太郎」だろう。15(平成27)年頃から駅に居着くようになり、タヌキのような顔立ちと青い目、おっとり気ままな性格で人気を集めている。16年5月には「嘉例川観光大使」に任命された。
山木委員長によると、人間でいえば80~90歳に当たる「にゃん太郎」は、夏場に体調を崩し休養中。今は元気を取り戻し「涼しくなったら午前中だけでも駅に顔を出せそう」とのこと。早く元気な姿が見たいものだ。
鉄道の利用客は全盛期と比べてかなり少なくなってしまいましたが、駅舎そのものが観光スポットとして脚光を浴びています。鹿児島空港からもほど近いため観光バスやタクシーなどで訪れる観光客も多く、休日を中心ににぎわいます。今後もこの懐しいたたずまいのまま、長く残ってほしいですね。
8.はやとの風
今回はJR九州の観光特急「はやとの風」を紹介します。鹿児島中央駅(鹿児島市)から吉松駅(湧水町)まで、さわやかな高原の風のように駆け抜けます。霧島駆ける”高貴の黒”
「はやとの風」は九州新幹線が開業した2004年3月、霧島方面への観光列車として運行を始めた。雄大な桜島や田園風景、緑豊かな霧島高原などを眺めながら快走する。勇壮な薩摩隼人のよろい姿をイメージした「ロイヤル(高貴な)ブラック(黒)」の車体は美しく、沿線の風景によく映えるのだ。レトロな雰囲気の観光特急を、沿線は大いに歓迎する。1903(明治36)年の開業当時のままの木造駅舎で知られる嘉例川駅(霧島市)では、この歴史ある駅をイメージした手作り弁当「百年の旅物語 かれい川」を販売。原木シイタケとタケノコの炊き込みご飯にサツマイモのてんぷらなど、地元食材を使った“山のおかず”が大人気だ。
霧島温泉駅(同市)では近くの霧島高校生が、2015年から夏休みに「おもてなし活動」として乗客をもてなしている。今年は7月23、24日、5分間の停車時間に同校が開発したケーキ「みごちふぉん」や地元産の冷茶などを振る舞ったほか、写真撮影用のパネルを用意。外国人観光客にも好評だったそうだ。
沿線を取り巻く環境は厳しく、18年3月から夏休みなどを除く平日の定期運行がなくなった。それでも霧島観光のシンボルとして果たす役割は大きい。これからも人口減に悩む地域を盛り上げてほしいものだな。
車両は元々は普通列車用のディーゼルカーですが、車体の外に始まり車内の座席や天井、床なども大改造が加えられて、新しく作られた車両のようです。車輪を支える台車にも、上下の揺れを抑えて乗り心地をよくするための改造が加えられています。乗り心地の違いを普通列車と比べてみるのも楽しいですよ。
7.SL人吉
今回はJR九州の観光列車「SL人吉」を紹介します。蒸気機関車(SL)が煙をはきながら熊本―人吉間を走る姿は、鉄道ファン注目の的です。煙はき 球磨川沿い力走
「SL人吉」は2009(平成21)年4月、JR肥薩線の開業100周年を記念して運行を始めた。今年3月末までの乗客は34万人を超え、沿線の観光客を増やすのに大いに役立っているのだ。機関車の「8620形」は1975(昭和50)年3月に現役を引退した後、肥薩線の矢岳駅(熊本県人吉市)そばで静かに眠っていたのだが、88(同63)年8月に「SLあそBOY」として復帰した。2005(平成17)年にいったん“引退”したが、再び「SL人吉」として運転を続けている。
肥薩線の八代―人吉間は「川線」と呼ばれ、日本三大急流の一つ、球磨川沿いを力走する。連続するトンネルの合間に球磨川渓谷の雄大な風景が車窓に広がる。二つの鉄橋など明治時代の技術の粋を集めた鉄道遺産も多く、鉄道ファンを楽しませてくれるのだ。
客車のデザインは、九州新幹線「つばめ」など九州の列車や駅舎などを数多く手掛けたデザイナーの水戸岡鋭治さんが担当。床や壁に木材を用いてクラシックな雰囲気を演出。展望ラウンジはガラス張りで、球磨川など沿線の風景を一望できる。夏休み中は火、水曜を除く毎日1往復する。球磨川沿いの美しい風景と、大地をけりながら走るSLの息づかいを味わってはいかがかな。
1922(大正11)年製造の古い機関車は、復活時や復活後の再整備で重要な部品の多くが新しいものに入れ替わり、古いけど新しい、新しいけど古い、そんな不思議な姿も魅力の一つです。
6.おれんじ鉄道
今回は肥薩おれんじ鉄道です。熊本県八代市と薩摩川内市を海沿いに結ぶ鉄道は、車窓から海に沈む夕日を味わえます。車窓から望む 海に沈む夕日
肥薩おれんじ鉄道は2004年3月、九州新幹線が開業したのに伴い、JR九州から鹿児島線の八代(熊本県八代市)―川内(薩摩川内市)間116.9キロを引きつぎ、鹿児島県や熊本県などがお金を出し合って作った「第3セクター」の鉄道会社だ。新幹線の開業で誕生した鉄道会社の中で、二つ以上の県に大きくまたがるのは肥薩おれんじ鉄道だけなのだ。沿線は高齢化が進み、人口は減る一方だ。04年度には188万人だった利用者数も、18年度は115万人と過去最低が見込まれるなど、開業以来苦しい経営が続いている。
そんな中、熊本県のPRキャラクター「くまモン」など、さまざまなデザインのラッピング車両を運行。13年3月からは沿線の食材を使ったフランス料理が楽しめる観光列車「おれんじ食堂」を始めるなど、利用者を増やそうと躍起だ。昨年11月にはおれんじ鉄道や沿線の阿久根市などを舞台にした映画「かぞくいろ」が全国で上映され、昨年12月から今年3月にかけて、乗客が前の年に比べて5%増えたそうだ。
車窓には九州西海岸の雄大な風景が広がり、晴れた日には甑島や阿久根大島が望める。みんなも東シナ海に沈む夕日を見に、おれんじ鉄道に乗ってみてはいかがかな。
車窓は海を見渡す区間が多く、特に夕方、水平線に沈む夕日を車内から眺めると車内もオレンジ色に染まり、幻想的な風景を味わうことができます。
5.旧宮之城線
今回は旧国鉄宮之城線です。1987(昭和62)年1月に廃止されるまでの63年間、川内川沿いの町々を結び、地域の発展を支えました。川内川に沿って人や物運ぶ
宮之城線は1924(大正13)年10月、川内(薩摩川内市)―樋脇(同市)間が開通したのが始まり。川内川をさかのぼるように線路を延ばし、37(昭和12)年12月には川内―薩摩大口(伊佐市)間66.1キロが結ばれたのだ。それまで馬車や川内川の船便にたよるしかなかった沿線住民にとって、宮之城線の開通は、画期的なできごとだった。竹製品や木材、炭、米など沿線の特産物を載せて県内外へと運んでいった。中でも昭和30年代後半、西日本一といわれた鶴田ダムの工事では大活躍。セメントをいっぱい積んだ10両編成の貨車を連ね、1日に3往復したそうだ。
67(昭和42)年には年間約347万人が利用した宮之城線も、過疎化やマイカー普及で利用者が減少。国鉄の分割民営化を3カ月後に控えた87(同62)年1月、大勢の沿線住民に見送られ、63年の歴史を閉じたのだ。
スイッチバック式の薩摩永野駅(さつま町)には、機関車を回転させる「転車台」がなかった。そこで薩摩大口駅との間、蒸気機関車は後ろ向きのまま客車を引いたそうだ。だから沿線には「汽車は後ろ向きに走るもの」と思いこんでいた子どもたちもいたそうな。
参考資料:国鉄宮之城線地域対策協議会「憧憬と郷愁の汽笛 宮之城線」
4.旧南薩線
今回は旧鹿児島交通南薩線です。1984(昭和59)年3月に廃止されるまで薩摩半島西海岸を結び、地域の発展を支えました。廃線から35年。沿線にはホーム跡などが残り、今も足跡をたどれます。西海岸結んだ“赤い気動車”
鹿児島交通(今のいわさきコーポレーション)南薩線は1914(大正3)年4月、前身の南薩鉄道が伊集院(日置市)―伊作(同市)間を皮切りに運行を始めた。31(昭和6)年には伊集院―枕崎(枕崎市)間49.6キロがつながり、「地域の足」として活躍したんだ。一時は知覧線=阿多(南さつま市)―知覧(南九州市)間16.3キロ、65(昭和40)年廃止=など路線を延ばした南薩鉄道も、昭和30年代をピークに沿線の過疎化やマイカー普及で利用客は減る一方。83(同58)年6月の豪雨災害で大きな被害を受け、復旧に多くの費用がかかることから、翌84(同59)年3月に廃止となったのだ。
沿線のさつま湖(日置市)にはバラ園やつり橋、ロープウエーなどを備えた遊園地があり、家族連れでにぎわった。みんなのおじいさんやおばあさんには、赤いディーゼルカー(気動車)に乗って、遠足に出かけた人がいるんじゃないかな。
開業以来1億2154万人と貨物500万トンを運んだ鉄路はサイクリングロードなどに変わり、ホーム跡や鉄橋の橋脚などが当時をしのばせる。沿線の人々とともに生きた“赤いディーゼルカー”はいつまでも記憶の中で走り続けるはずだ。
参考資料:鹿児島交通「軌跡―南薩鉄道70年」
背景のロープウエーは、鉄道とさつま湖を横断する観光用の「さつま湖ロープウエー」。ロープウエーは1956(昭和31)年に開業しましたが13年で廃止となり、列車とロープウエーが一緒に納まる光景が見られたのはわずかな間だけでした。