鹿児島県内では各地に旧日本軍の基地が作られ、空襲の被害を受けました。時系列に、戦争全体の流れをたどります(主に鹿児島県史年表を基に作成しました)
鹿児島の戦争 年表
1939年7月
1940年6月24日
1941年3月
1941年12月8日
1942年2月18日
1943年8月
1944年1月
1944年2月
1944年6月29日
1944年7月15日
1944年10月10日
1944年11月5日
1945年2月9日
1945年2月18日
1945年2月20日
1945年3月1日
1945年3月24~30日
1945年4月
1945年4月8日
1945年4月15日
1945年4月16日
1945年4月17日
1945年4月21~26日
1945年5月18日
1945年6月8日
1945年7月9日
1945年7月27日
1945年7月29日
1945年8月5日
1945年8月7日
1945年8月9日
1945年8月11日
1945年10月15日

子どもの頃に覚えた軍歌を歌う岩元和さん=鹿屋市野里町

旧海軍航空隊の笠野原基地跡に残る川東掩体壕=鹿屋市川東町

串良基地跡の地下壕電信司令室=鹿屋市串良町有里

米空母の甲板で特攻隊員の遺品を拾ったウィルソン・バートレットさん

米空母の甲板で拾われた財布に入っていた写真複写の一部(「モシターンきりしま」掲載紙面から)

校庭に残る地下壕の出入り口=出水市の下水流小学校

地下壕の内部。右側に横方向に掘り込まれた部分がある=出水市の下水流小学校


空薬きょうを手にする税所セツエさん=出水市本町

出水市の特攻碑公園に残る戦闘指揮所の防空地下壕

「引き揚げ列車から見た子供たちの死体が忘れられない」と話す谷元太一さん
竹下拓友会拓友誌より.jpg?v=1701636378)
青少年義勇軍として渡満を決意し、家族と記念撮影する少年(右から5人目)竹下拓友会拓友誌より

戦争に翻弄(ほんろう)された半生を語る濱田トメ子さん

濱田さんが勤めた満州国総務庁の入った国務院(「図説 満州帝国 河出書房新社」から)


挺身隊員の動員証明書

佐世保海兵団に入団した当時の井ノ久保武義さん(井ノ久保さん提供)

井ノ久保武義さんが乗り組み、ハワイ作戦に参加した軽巡洋艦「阿武隈」(井ノ久保さん提供)

「軍とは一筋縄ではいかない組織」と語る井ノ久保武義さん
.jpg?v=1701636378)
米、英両国への宣戦布告を伝える鹿児島新聞(1941年12月9日付の夕刊)

特攻仲間の写真や遺書の複写を前にする板津忠正さん=愛知県犬山市の自宅

鳥浜トメさんと並んで写る板津忠正さん(左)=1945年6月ごろ

「特攻の母」と慕われた鳥浜トメさん

鳥浜トメさんの思い出を話す孫の明久さん=南九州市知覧のホタル館
。着陸時の感覚を養う訓練に使われた施設の一部.jpg?v=1701636378)
旧陸軍知覧飛行場の訓練施設・鎮碇(ちんてい)。着陸時の感覚を養う訓練に使われた施設の一部

知覧特攻平和会館では陸軍沖縄特攻作戦で亡くなった隊員の1人1人の遺影が展示されている

【関連地図】

1942年、ラバウルの海軍飛行場に進出した航空母艦「瑞鶴」の整備科員(木之下茂道さん提供)

遺言状を手に、人間愛にあふれた父だったと振り返る堀之内誠さん=鹿児島市明和5丁目

「一家の柱となり家族を支えよ」と説いた堀之内與吉さんの遺言状と遺影=鹿児島市明和5丁目

田中和夫さんが小学生の頃に掘った戦車壕跡=和泊町瀬名

「水兵時代、初めてセーラー服の晴れ姿で古里に戻った時は誇らしかった」と回想する荒木政雄さん=西之表市西町

1936年、南洋群島方面で活動中の駆逐艦「夕凪」(呉市海事歴史科学館編「日本海軍艦艇写真集 駆逐艦」より)

一等水兵時代の荒木政雄さん

【関連地図】

1936年、南洋群島方面で活動中の駆逐艦「夕凪」(呉市海事歴史科学館編「日本海軍艦艇写真集 駆逐艦」より)

終戦直後、訓練仲間の寄せ書きを集めた筆記帳を大切に保管している奈良伍郎さん

奈良伍郎さんが、三重海軍航空隊の野辺山派遣隊(長野県)で明け暮れたグライダーによる滑空訓練を描いたイラスト

井ノ久保武義さんが搭乗していた零式水上偵察機(井ノ久保さん提供)

井ノ久保武義さんが鹿児島海軍航空基地で訓練を重ねた偵察機「彩雲」(井ノ久保さん提供)
=鹿児島市真砂本町の鴨池小学校.jpg?v=1701636378)
海軍航空隊鹿児島基地跡の石碑(左)=鹿児島市真砂本町の鴨池小学校

慰霊のために彫った観音像を抱く上野辰熊さん
記憶をつづった手記を手に、特攻隊員当時の葛藤と苦悩を語る東郷勝次さん=都城市鷹尾3丁目

1945年2月、中国の飛行場で三式戦闘機「飛燕」の前に立つ東郷勝次さん

戦時の記憶をつづった東郷勝次さんの手記。特攻志願書の選択肢などが読み取れる
.jpg?v=1701636378)
竹林に残る万世飛行場の裏門(南さつま市)

平川動物公園の動物慰霊碑

「戦争は二度と起こしてはならない」と語る桐原正吾さん

桐原正吾さんに届いた母の手紙

特攻機の中継地「徳之島海軍飛行場」近くの多賀屋食堂に残された隊員の墨跡
.jpg?v=1701636378)
勤労動員を前に照国神社で職場挺身を誓う鹿児島市の高女生(1944年3月19日付、鹿児島日報)

垂水海軍航空隊で衛生兵を務めた山野秀則さん=鹿児島市紫原7丁目

佐世保(長崎県)にいた当時21歳の山野秀則さん

沈没後に引き上げられ「第一垂水丸」として改修された第六垂水丸(垂水史談会提供)

当時の思い出を語る鶴川智治さん=日置市伊集院町猪鹿倉

鶴川達哉さん(鶴川智治さん提供)

鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前

国分海軍航空隊国分第一基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目

伊仙町に残る防空壕の内部

串良基地での戦争体験を振り返る丸目南兵衛さん=志布志市有明町野神

串良航空基地からの特攻の主力機だった九七式艦上攻撃機(ウィキペディアより転載)

国分海軍航空隊第一国分基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目

鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前
.jpg?v=1701636378)
対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)
.jpg?v=1701636378)
対馬丸慰霊碑に触れる対馬丸の生存者(2017年3月19日、宇検村宇検)
.jpg?v=1701636378)
対馬丸記念館には犠牲となった児童たちの顔写真が並ぶ(沖縄県)
.jpg?v=1701636378)
海軍航空基地があった喜界島に残る、縦8メートル、横10メートルのコンクリート製の戦闘指揮所跡。入り口は4カ所ある(喜界町)

海軍航空基地跡の戦闘指揮所の内部。コンクリートにはサンゴも混ざっている
.jpg?v=1701636378)
あどけない笑顔をのこして出撃する特攻隊(1945年4月20日付の鹿児島日報)

西古見砲台に配備されていた28センチりゅう弾砲(1945年10月6日撮影)=瀬戸内町西古見(沖縄県公文書館所蔵)

28センチりゅう弾砲の砲座跡を示す山元真琴さん=瀬戸内町西古見

「無謀な戦争をなぜ始めたのか、検証すべき」と語る山元真琴さん=瀬戸内町西古見

太平洋戦争末期の硫黄島について証言する西進次郎さん=鹿児島市宇宿3丁目

米軍の上陸地点近くに設けられたトーチカ。砲撃で鉄筋コンクリートの壁は崩れ、中には火炎放射器によるとみられる熱で焼きただれた機関銃が残っていた=2019年5月、東京都・硫黄島

地図・硫黄島は東京の南約1250キロにある

木原信雄さん

海軍入隊で作られたのぼり。ほかにも小旗や千人針、手術で使う手袋などを大事に保管している。「夫」の字は間違えて表記されていた

海軍での体験を語り、「二度と戦争はしないように」と諭す石田尾道義さん

【関連地図】

南種子町島間の疎開体験者らが旧吉田町の吉田小校庭に建立した「学童疎開之碑」

空襲後の鹿児島市街地の様子について瀬戸口博さんは「ちんがらっだった」と語る

出征前の男子寮学生からもらった“ラブレター”を手にする松元ヨウ子さん。当時の心境を込めて作詞作曲した歌の譜面と歌詞がつづられている

体験をできるだけ多くの人に伝えたいと話す別府典子さん

1945年6月24日付の鹿児島日報。同17日の鹿児島大空襲について、当時の柘植文雄県知事のラジオ放送要旨などが掲載されている

柱を貫通した機関銃の弾痕を指さす三木正英住職

父親の遺品の鉄かぶとを見つめながら、当時の思い出を語る久保田剛さん=鹿児島市皷川町

防空監視隊本部での体験を語る島名富久子さん
.jpg?v=1701636378)
城山登山道脇に建つ掘っ立て小屋と防空壕(1960年7月22日付南日本新聞夕刊に掲載)

終戦直後の2カ月半、ソ連兵に連行された経験を話す中村甚治さん

長女・望都子(もとこ)ちゃんの写真を手にする山内笑子さん=出水市西出水町
.jpg?v=1701636378)
進駐軍広報担当のオズボン大尉とジープでくつろぐ当時の永田鹿屋市長(1945年10月4日付、鹿児島日報)

引き揚げ証明書を手に、当時の惨状を語る森一さん=薩摩川内市入来町浦之名