かごしま明治維新特集
幕末新聞
 「幕末新聞」は1867(慶応3)年の1年間を、当時の国内外の史料をもとに“新聞スタイル”で再構成。もし今の新聞があったらどう報道したか?薩摩藩を中心として激動の日々に焦点を当てます(構成上の「特派」や「談」はフィクションです)。「幕末新聞」は南日本新聞で2017年1~12月、月1回連載しました。
※メインの記事1本を掲載します。

[幕末新聞第3号]国父・島津久光と薩藩兵700人が京へ 将軍に対抗

鹿児島を出立する島津久光と藩兵一行の図。当時の写真と「三国名勝図会」などの資料をもとに再現=絵師・谷口博威
鹿児島を出立する島津久光と藩兵一行の図。当時の写真と「三国名勝図会」などの資料をもとに再現=絵師・谷口博威
 【薩摩】薩摩藩国父・島津久光の率いる兵700人余りが慶応3(1867)年3月25日、京都に向け国元・鹿児島城下をたった。中央政界において最重要課題となっている、「兵庫開港」の解決に向け、朝廷からの上京命令を受けての対応。識者によると、薩摩藩側には長州処分も絡めて「雄藩諸侯による合議体制を再び構築したい」との思惑があり、島津家と久光の動向に注目が集まっている。

 藩主実父として実権を握る島津久光の上京は4回目、3年ぶり。藩兵は当初、5000人とも3000人とも予想されたが、結局1000人に満たない数となった。

 「再び国政に参画する時宜を失う訳にはいきもはん」と決意を見せる久光は、文久2(1862)年の率兵上京をはじめとして、兵力を背景に幕政改革を迫る(文久の改革)など、中央での政治参画に一定の実績を挙げてきた。また前回(文久3、4年)は一橋慶喜(当時、現将軍)らと「参与会議」という合議体制を成立させたものの、主導権争いから決裂。怒った久光が帰国したという経緯がある。

 京都ではその後、将軍職を慶喜が継ぎ、幕府側は巻き返し。雄藩勢力側も対抗して、薩摩藩在京指導部の小松帯刀、西郷隆盛らが、諸侯の会議復活を模索していた。

 参集するのは久光を筆頭に、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城といった面々になるもよう。西郷は直接、久光の上京説得をしたほか、容堂らの元にも足を運び要請したという。このいわゆる四侯会議によって、難航する両問題を解決に導くことができれば、勢力挽回につながると期待する。

 薩摩藩に“大きな壁”となって立ちはだかる慶喜だが、両者の関係は当初良好だった。公武合体を目指していた久光は文久の改革では、慶喜の将軍後見職就任を実現させ、政治の表舞台に引っ張り出した。小松にしても慶喜とは懇意の仲で、在京中に度々薩摩の黒豚を所望されていたほどだ。だが、参与会議瓦解(がかい)の際には、慶喜が「天下の大愚物(だいぐぶつ)」と久光らに問題発言し、関係修復は困難となった。

 久光入京は4月中旬になる予定。関係筋によると、在京藩士の中には「(四侯会議が)成功しない場合には強硬手段も」との意見があり、事態は緊迫の度合いを増している。
※2017年3月2日、南日本新聞掲載
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