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幕末新聞
「幕末新聞」は1867(慶応3)年の1年間を、当時の国内外の史料をもとに“新聞スタイル”で再構成。もし今の新聞があったらどう報道したか?薩摩藩を中心として激動の日々に焦点を当てます(構成上の「特派」や「談」はフィクションです)。「幕末新聞」は南日本新聞で2017年1~12月、月1回連載しました。
※メインの記事1本を掲載します。
[幕末新聞最終号]「王政復古」を大号令 薩摩主導で新政府樹立

「王政復古の大号令」の沙汰書。総裁、議定、参与の三職の設置をうたう(鳥取市歴史博物館所蔵)
政変を画策したのは、国政改革を目指す薩摩を中心とした有力諸藩に、返り咲きを目指す岩倉具視ら勤皇派の公家を加えた面々だ。前日8日から9日早朝まで夜通し開かれた朝議で、長州藩主親子の官位復旧、入京許可が正式に決議。次いで謹慎処分だった岩倉や文久3(1863)年の「八月十八日の政変」で都を追われていた三条実美(さねとみ)らも赦免され、新政府に向けた“環境”が整えられた。
朝議終了後、薩長に「討幕の密勅」を根回しした公家の中山忠能(ただやす)や正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)、前越前藩主・松平春嶽、前尾張藩主・徳川慶勝ら6人がとどまった。赦免されたばかりの岩倉が「王政復古」案を持参して参内。その後薩摩など5藩兵が禁裏を封鎖し、徳川慶喜や会津・桑名など旧幕派の手出しのできない状況になった。薩摩藩在京首脳部の大久保利通や西郷隆盛も藩兵に合わせて参内した。
有栖川宮熾仁(たるひと)親王らに加え、薩摩藩主・島津忠義や前土佐藩主・山内容堂が呼び出されて会議が始められた。薩摩主導で協議は進み、春嶽が新政府の構成員がわずか5藩だけとなるのに対して反対したものの、最終的には合意して天皇の裁可が下った。
宣言文では徳川慶喜による大政奉還、そして将軍辞職を受け、「未曾有(みぞう)之国難」に陥る中、「王政復古、国威挽回の御基立たせられ候」とした。その上で旧来の「摂関幕府等」を廃し、天皇の下、新たに「総裁」「議定」「参与」の三職を設置するとうたう。
新政府は公家・武家の身分を超えた「至当の公議」で運営。総裁に有栖川宮、議定には山階宮晃親王や中山、正親町三条に加え、春嶽ら有力諸侯を任命、参与に岩倉や大原重徳を選んだ。総勢16人の顔ぶれで、慶喜の名はなかった。ここに徳川幕府は廃され、「近代国家」を目指す日本の“新たな船出”となった。
※2017年12月7日、南日本新聞掲載
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