2023/01/09 10:00
タシケントで強制労働。朝晩は茶碗一杯の雑炊、昼は黒パンひとかけらだけ。パンはソ連の将校が横取りした残りをみんなで分けた。栄養失調になるのは時間の問題だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

引き揚げ証明書を手に、当時の惨状を語る森一さん=薩摩川内市入来町浦之名
敗戦の報は中国の敦化陸軍病院で聞いた。一九四五(昭和二十)年二月に入隊、旧満州へ渡り、弾薬や食糧を運ぶ任務だった。日ソ中立条約を破ったソビエト戦闘機の機銃弾が左肩を貫通し、入院したばかり。戦争が終わったという実感はなく、ただ涙が流れた。
半年余りの病院生活ののち、貨車に押し込まれた。数日かけてたどり着いた中央アジア・タシケントで、強制労働が待っていた。砂漠に生えた直径十センチ弱の木を根こそぎ倒し、薪にする。一日のノルマは幅三メートル、高さ一メートル。最初のうちは根っこ部分のでこぼこを利用して、すき間だらけに並べていたが、途中でばれて、上から踏みしだかれ半分の高さまでならされた。過酷な労働に、“戦争”は終わっていなかったと感じた。
与えられる食料は、朝晩が茶わん一杯の雑炊、昼は黒パンひとかけら。日本人に与えられるはずのパンを、ソ連の将校が家族に持ち帰っており、その残りをみんなで分けた。
トウモロコシやコウリャンの雑炊も、底にわずかな固形があるだけで、ほとんど水のようなもの。朝のうちに昼食分のパンにも手を出してしまい、昼はお茶だけという生活が続いた。
少しの食事と重労働。栄養失調になるのは時間の問題だった。体はむくみ、歩くのもままならない。古傷がうずき左腕が上がらなくなった。仕事を終えた夕方、収容所へ帰り横になったまま息絶えた人も数え切れない。「夕食だぞ」と揺すっても、まったく動かなくなった仲間の姿は忘れようにも忘れられない。自分が生き残れたのは、ただ若く体力があったからとしか思えない。
死者は毛布にくるみ、深い穴に埋めた。戦友が無念を抱えたまま、遠い異国に眠っている。墓参りでも、と思うが、つらい思い出もよみがえり、実現しないままでいる。
日本に帰れると知ったときの喜びは、何とも言い表せない。四八年十一月、京都の舞鶴港に到着し、うち振られる日の丸の小旗を見たときは、自然に涙がこぼれた。鹿児島に帰る道すがら、サツマイモを掘る姿が目に入った。故郷に帰ったら、サツマイモが腹いっぱい食べられると思うと、また涙があふれた。
(2006年5月21日付紙面掲載)
■アーカイブ
■高橋雅教さん(87)西之表市西之表 東京新宿で大空襲にあい、鹿児島市役所隣で「瀬戸口印舗」を営んでいた義父のもとに…
2023年3月20日 10:00
■平城エミさん(79)大口市青木-㊤ 赤いユリの花は、私にはせつない。終戦の日、勤めていた海軍病院で少尉が割腹自殺した。…
2023年3月13日 10:00
■税所セツエさん(73)出水市本町 一九四五(昭和二十)年三月十八日、出水郡高尾野町野口の自宅に自警団の人たちが空襲があ…
2023年3月6日 10:00
■日永千博さん(75)鹿児島市西坂元町 一九四五(昭和二十)年、鹿児島市は何度も空襲に見舞われた。当時は鹿児島市立工業学…
2023年2月27日 10:00
■瀬戸口博さん(70)旧川辺町両添(現・南九州市) 空襲が頻繁になった一九四五(昭和二十)年五月だったと思う。 印鑑屋を…
2023年2月20日 10:00