2023/01/16 10:00
14歳で故郷を離れ朝鮮半島南部の軍港で働いた。敗戦の報には衝撃を受けた。引き揚げるために有り金をはたいて漁船を借りたが、出港を待つ間に荷物ごと消えていた〈証言 語り継ぐ戦争〉

徳守勝一さん
一九四二(昭和十七)年四月、朝鮮半島南部の軍港・鎮海(現・韓国慶尚南道鎮海(チンヘ))に渡った。当時は軍隊で働くことが若者のあこがれだったため、朝鮮鎮海海軍工作部にいた親せきを頼り、十四歳で故郷を後にした。
工作部は船や機関銃の部品、魚雷艇などを造ったり周辺警備などをする部署で、約千人が働き、半分が朝鮮人だった。
初めの一年間は見習工員養成所で英語や物理、化学の授業と、旋盤やドリルなど工具の扱い方の実習があった。夕食後も復習をし一日中勉強していた。二年目に見習工員になり、上司の雑用や作業所の掃除を行った。簡単な仕事だったが忙しく、昼休みは昼食を含め三十分しかなかった。
工作部から徒歩約二十分の距離に寄宿舎があり約五十人が泊まり込み、四人部屋だった。三食とも米に大豆かすを半々に混ぜたものが主食でおかずはワカメなどの海藻。食料は軍人優先のためおかわりができずひもじかった。
一度、故郷の父母からサツマイモの小包が届いた。久しぶりのイモのにおいに興奮し、同部屋の友人らも大喜びした。検閲を受けるものの手紙は許されており、はがきで感謝の気持ちを伝えた。
四四年四月に朝鮮鎮海海軍海兵団に入隊。試験を受け同七月、上等兵になり鎮海海軍防備隊に配属された。本来の任務は敵機、敵船の襲撃から基地を守ることだったが、終戦まで空襲が一、二度あったぐらいで、地下室設営などの手伝いに駆り出された。軍人になり主食は白米、おかずは魚や肉の缶詰になるなど待遇は上がったが、上官からは軍人勅諭を厳しく仕込まれた。
よく夜空を見上げた。北斗七星を見ているとまるで鹿児島から見上げているように感じられ、どっと郷愁が押し寄せた。北斗七星が思いを伝えてくれるような気がして、「元気でがんばっているよ。心配しないで」と父母への祈りを託した。
四五年八月十五日の昼すぎ、上司から敗戦を聞かされた。「まさか日本が負けるとは」と衝撃を受けた。
引き揚げのため十月、鹿児島、宮崎県出身者約二十人で有り金をはたいて朝鮮人の漁船を借りた。長崎・平戸港へ出港したが、海が荒れて引き返した。天候の回復を待っていた間、何か事情があったのか積んでいた荷物ごと船が消えた。靴、軍服だけでなく着替えもなくなり往生した。
四日後、別の漁船と交渉し二回目の出港。数日かけようやく平戸港に着いた。本土を目にし安堵(あんど)感でいっぱいになったと同時に鎮海では見られなかった空襲被害に驚いた。汽車で帰るつもりだったが戦災で不通。歩いて帰るのも大変だと漁船と料金交渉し、熊本の三角港経由で、数日間かけ串木野港まで船を回した。
串木野の親せき宅で休んでいたら父親が迎えに来た。荷物が多いだろうと牛車をひいていた。私が手ぶらだったので二人で大笑いしたことを昨日のことのように覚えている。
(2006年5月22日付紙面掲載)
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