語り継ぐ戦争
 2023/02/06 10:00

「ザー」。6月17日の暑苦しい夜、雨と思ったその音は米軍が落とした焼夷弾だった。逃げ込んだ防空壕入り口の木に引火し、中は熱風で生き地獄となった〈証言 語り継ぐ戦争〉

両腕にやけどの跡が残る恒吉博己さん
両腕にやけどの跡が残る恒吉博己さん
■恒吉博己さん(68)南さつま市加世田内山田

 一九四五(昭和二十)年六月十七日は暑苦しい夜だった。鹿児島市の中洲国民学校二年生だった私は、上之園町の自宅でパンツ一枚で寝ていた。

 午後十一時すぎ。両親に起こされると、「ザー」という音が聞こえ、「雨だろうか」と思った。私は上半身裸のまま、家族五人で家の横の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。建設業をしていた父は、自宅の防空壕を入り口、出口に分け、木の枠を取り付けていた。中には生活に必要な家財道具まで入れ、いざというときは生活できるようになっていた。

 「ここなら安心」と思っていたが、雨だと思った音は米軍が落とした焼夷(い)弾。それが壕の横の竹の塀に火を付けた。瞬く間に壕の入り口の木に引火、壕内は熱風で生き地獄となった。

 毛布を口に当てても息苦しい。「このままでは窒息する、出よう」。母の決断で、兄、姉、妹と壕を出て、普段なら飛び降りることができない石垣を飛び降りて逃れた。道路には火の粉が舞い、裸の上半身に降りかかる。それを両腕で払いのけながら走った。痛さは感じず、ただ恐怖だけだった。

 「甲突川に逃げよう」という母に付いていった。現在の共研公園のところにあった鹿児島女子興業学校(現在の鹿児島女子高)の外周の道路まで行くと、二階建ての家が焼け落ちて道路をふさいで通れなくなっていた。その一カ所で水道管が破れて水が噴き出していた。仕方なく私たち家族はその水たまりに漬かって夜明けまで降りかかる火の粉から身を守った。

 通りかかった警防団の人から「ここは危ないから広場に移動してください」と指示され、広場に行った。途中も行き倒れた人でいっぱいだった。そこで、警防団員として空襲後に見張りなどにあたっていた父、防空壕に入らずに逃げた長姉と中学生の兄に出会えた。父は「防空壕に残した家族はどうなっただろう」と案じていたということだった。

 私たち家族はその後、田上に掘っていた第二の防空壕で一カ月過ごした。火の粉を振り払った両腕はやけどしており、そこにジャガイモを擦って当てた。そんな治療しかできなかった。

(2006年5月31日付紙面掲載)

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