語り継ぐ戦争
 2023/01/08 11:26

フィリピンからの生還者は漏らした「人間を食べる人がいるくらい飢えていた」 父世代に学んだ戦争の理不尽さ、伝え残す〈証言 語り継ぐ戦争〉

戦争の理不尽さを伝え残そうと父の遺品をファイリングしている川原裕さん=鹿児島市上福元町
戦争の理不尽さを伝え残そうと父の遺品をファイリングしている川原裕さん=鹿児島市上福元町
■川原 裕さん(72)鹿児島市上福元町

 2001年に亡くなった元警察官の父高秋は、1943年6月から終戦までの約2年間、佐世保海兵団(長崎県)に配属された。1950年生まれの私は、戦争の傷跡が色濃く残る時代に育ち、父の晩年、当時を振り返る肉声を録音した。

 42年8月、父は社会主義運動など反体制活動を取り締まる特別高等警察の主任として、種子島署に赴任した。県本土から島へ向かう際「アメリカの潜水艦が近海に出るから、十分気をつけよ」と送り出された。

 約1年後、新婚だった母を残し佐世保海兵団に。3カ月の新兵教育を受けた後、軍港の警備を任された。警察官出身者への風当たりは強く、「娑婆(しゃば)では偉そうにしやがって」と理不尽に殴られる毎日だったという。

 厳しい訓練に耐える一方、食糧難にも悩まされた。2食分食べるために、配食されたご飯を盗まれたと仲間とうその申告をして、ありついたこともあったらしい。気合が入っていない証拠とたたかれたが、痛みより空腹を満たす方が大切だった。

 45年6月未明、佐世保大空襲で米爆撃機B29の焼夷(しょうい)弾が父の下宿施設を直撃。たまたま勤務中で被害を免れたが、多くの仲間が命を失った。燃えさかる建物が防空壕(ごう)をふさぎ、中に逃げた人々は蒸し焼きになって死んだ。常に死と隣り合わせの日々だった。

 阿久根市高松町の父の実家にも戦火は及んだ。米軍機が何度も低空飛行し、次々と機銃弾を打ち込んだ。私も祖父母から「パイロットの顔が見えるくらい接近し、動いているものは何でも撃たれた」と聞かされた。祖父母宅の庭の片隅には20~30ほどの弾が寄せ集められ、防空壕も小学校高学年まで残っていた。

 45年8月、帰還した父は警察官に戻る。戦死者が多く、台湾やモンゴル、朝鮮から引き揚げた元警察官が欠員補充に充てられた。

 父は時折、刑事仲間を招き、宴を開いた。軍歌を歌い、戦争の思い出に浸る姿が私の記憶に残っている。フィリピンからの生還者が「人間を食べる人がいるくらい飢えていた」と漏らしていたのが衝撃だった。

 小学3、4年時の担任は元特攻隊員だった。授業そっちのけで黒板に空中戦の様子を描き、戦闘の激しさを教えた。戦没者への思いが常にあるのは恩師のおかげだと思う。

 69年、父の勧めもあり、鹿児島県警に就職した。周りの先輩は出征経験者ばかりだったが、戦時下の経験を語る人は少なかった。生き残った罪悪感を抱えている人が多く、当時は話題にすることもタブー視されていた。

 戦争を知る人は年々、少なくなっている。本来、政治家が守るべき一般市民から傷ついていくのが戦争だ。決して人ごとではない。召集令状など父の遺品は全て整理し、ファイリングした。次世代の私たちが、戦争のやるせなさや理不尽さと向き合い、伝え残していかなければならない。

(2023年1月8日付紙面掲載)

佐世保海兵団に召集される前、新婚時代の川原さんの父・高秋さん
佐世保海兵団に召集される前、新婚時代の川原さんの父・高秋さん

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