おめでとうヤット

苦難乗り越え大記録

ひょうひょうとした語り口で、多くを語らない職人気質の遠藤。しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。鹿児島実時代は天皇杯でのけが、プロになっても北京五輪の出場辞退、ドイツW杯での出場ゼロなど幾多の苦難を乗り越えて打ち立てた金字塔がJ1最多出場記録だ。

「天皇杯には力を入れない」。鹿児島実を長く率いた松沢隆司総監督(故人)が、天皇杯初出場となった1997年以降決めたポリシーだ。そこにはエース遠藤を負傷で欠き、高校選手権の優勝を逃した悔しさがこめられていた。

同年11月30日の天皇杯1回戦。鹿児島市の鴨池陸上競技場は異様な雰囲気に包まれていた。JFL札幌と鹿児島県代表・鹿児島実高との一戦。天皇杯鹿児島県予選決勝で、九州リーグのヴォルカ鹿児島を破った鹿実はJFL相手にも堂々とした戦いを見せていた。同決勝で2得点2アシストと大活躍した遠藤も献身的プレーでチームを鼓舞する。

エピローグ

速い集散で善戦する高校生相手に札幌は不用意なプレーが相次ぐ。ファウルが両チーム合わせて41個と荒れた試合の中、前半23分に遠藤が相手のスライディングを受け、負傷交代。スタンドからも「大丈夫か」と気遣う声が飛んだ。結局、1-2で敗退。鹿実の初めての天皇杯は終わったが、遠藤の負傷は深刻だった。

97年12月31日の全国高校サッカー選手権1回戦、対浦和東戦。ピッチに遠藤の姿はなかった。「遠藤がいなかったから負けたと、言われたくない」。チームメートが意地を見せ4-0と圧倒。しかし、98年1月2日の2回戦、対前橋商戦。そのスタメンにも遠藤の名前はなかった。ゲームメーカーを欠いた鹿実はDFラインが下がり、空いた中盤を支配され前半だけで3失点を喫した。

「出させてください」。ハーフタイム中、松沢総監督に遠藤が直訴。後半4分から出場し、ようやくベストメンバーとなり攻撃も形になってきた。その後に得たコーナーキック。キッカーは遠藤で、得点への期待は膨らんだ。しかし、蹴られたボールはグランダーで力なく転がり、ペナルティーエリアまで届かなかった。結局、1-4で敗れた。「故障している遠藤を出してきて(鹿実は)余裕がないな、と勝利を確信した」と前橋商の監督。2年前の優勝校で今大会の優勝候補筆頭だった鹿実の冬が終わり、遠藤にとって集大成の大会も理不尽な形で終わった。「済んだことは仕方がない」。淡々と述べたコメントは逆に無念さがにじむ。優勝を狙いながらも、チームの要を負傷で欠き敗れた松沢総監督は、「体ができあがっていない高校生と、社会人との対戦は危ない」と、これ以来、天皇杯に関心を示さなくなった。

高校卒業後、遠藤は横浜フリューゲルスに進み高卒ルーキーでいきなり開幕戦に出場した。対戦相手は兄・彰弘のいる横浜マリノス(当時)。いきなり兄弟対決が実現した。非凡なパスセンスと人知れず重ねた努力で、頭角を現し4年後には日本代表に選出された。そこで迎えた2006年ドイツW杯。意気揚々と向かった大会で、遠藤はピッチに現れなかった。全3試合のうち、GK以外のプレーヤーで出場機会がなかったのは遠藤だけ。「1秒でもピッチに立ちたかった」。珍しく素直なコメントだろう。「最終戦で3人目の交代選手が出たときは、残念な気持ちと自分の力不足を感じた」

帰国後の遠藤の変化を父武義さんは感じた。「特にフィジカル面を強化したい」と話していたように、これまで以上に筋力トレーニングに取り組む姿を見て「よっぽど悔しかったのでしょう」と振り返る。

海外リーグに出ていく選手が増える中、外国人に負けない体づくりを国内で続けることは難しい。地味で、きつくて、地道に鍛えていくしか方法がない中、けがをしにくい、強い体をつくりあげた。その結果が、公式戦1000試合出場(日本人初)をはじめ、今回のJ1最多出場記録樹立につながった。

08年北京五輪ではオーバーエイジに選出されたが、感染症のため出場辞退。12年にはチームのJ2降格も経験した。決して順風満帆とは言えないプロ23年目に達成した大記録は、おそらく破られることはなく、むしろ記録をさらに伸ばしていくことだろう。「もっとサッカーを楽しんでうまくなりたい」(公式戦1000試合出場時)。様々な挫折を乗り越えてきた遠藤保仁。記録にも記憶にも深く刻まれたヤットの挑戦はまだまだ続く。(敬称略)