
高麗町にある井上良馨誕生地の碑
「明治の偉人・井上良馨(よしか)の誕生地の碑が鹿児島市内に二つある。どちらが本当?」。こんな疑問が「こちら373」に寄せられた。確認すると、高麗町と加治屋町にそれぞれ「誕生地」「誕生之地」とする碑があった。その横にある鹿児島市の説明看板もまったく同じ。確かに紛らわしい。周辺は西郷隆盛、大久保利通をはじめ、数多くの偉人を輩出した地域。ほかにも検証が必要な碑があることが分かった。
井上良馨(1845~1929年)は薩英戦争に従軍。維新後は海軍士官になり、横須賀や呉の鎮守府司令長官などを歴任し、1911(明治44)年元帥。
高麗町の碑はナポリ通り沿いの個人宅の敷地内にあった。表に「元帥子爵井上良馨誕生地」とあり、裏に「昭和9年建立」と刻まれていた。石は風化し、建立者は分からない。
住民の女性(87)に経緯を尋ねると、戦後間もないころ一帯は田畑で、碑はその一角にあったという。「自宅敷地の奥にあったが、社会科見学の子どもたちがよく訪れるため、現在の道路沿いに移設したと聞いている」と教えてくれた。
一方、「誕生之地」の碑は、甲突川を挟んだ加治屋町の鹿児島中央高校隣接地にある。同町内会が68(昭和43)年、明治100年を記念し、井上や村田新八、篠原国幹など約10人の碑を建立。今の碑は96(平成8)年に再建された。
加治屋町は西郷や大山巌、東郷平八郎など偉人を輩出した土地。町内会長の西村光行さん(76)は「居住地など何らかのゆかりがあったので碑を建てたはず」と推測する。
町内会は熱心に偉人顕彰に取り組む。町民館に顕彰会館を併設し、過去には偉人祭を開催。ゆかりの偉人の出身地番や経歴をまとめた冊子も作成している。
維新ふるさと館特別顧問の肥後秀昭さん(73)に聞いた。井上の碑について「誕生地は高麗町が正しい」。さらに別の町で生まれたはずの村田新八や篠原国幹らの誕生碑も加治屋町にあるという。
なぜこのような事態になっているのか。肥後さんは「西郷や大久保利通を輩出し、加治屋町にあった学舎の名簿に井上や村田らの名前が残っている。それを参考にしたのではないか。ただ、誕生地は別なので、今のままでは誤解を生んでしまう」と指摘する。
例えば大久保利通は誕生地(高麗町)と生い立ちの地(加治屋町)と二つがある。肥後さんは「碑の位置や説明についてしっかり検証していくことが望ましい」と話す。

加治屋町にある井上良馨誕生地の碑

井上良馨(国立国会図書館所蔵「近代日本人の肖像」から)