北朝鮮引き揚げ途中の38度線検問。銃を持ったソ連兵が女を差し出せと迫った。その時「私のことは気にせず、日本へ」。若い女性が1人で兵の元に歩き出した〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/01/26 10:30

地図を見ながら北朝鮮からの引き揚げを振り返る関公寛さん=阿久根市赤瀬川
1940(昭和15)年ごろ、家族で北朝鮮の平壌に渡った。当時5歳。鹿児島県の土木技師だった父が親戚に「現地で働こう」と誘われたのがきっかけだった。
渡航後、平壌駅そばの日本人住宅街で暮らした。周辺は区画整理され、道路も舗装されていた。冬は学校から帰って、おやつのリンゴを床暖房「オンドル」で温めて食べるのが楽しみだった。
9歳で終戦を迎えた。日本人を見ると逃げていた現地の人が、「マンセイ(万歳)」と声を上げていた。それまでの植民地支配に対する不満が爆発したのだろう。
父は出征していた。残された母と祖母、生まれたばかりの妹と近くの日本人の家に移った。ソ連兵や朝鮮の人たちの襲撃に備え、4、5家族と一緒に2階に生活した。外には出ず、昼間は侵入者に投げるためのまきを2階に運んだ。
母は終戦翌年の5月、病気で亡くなった。その頃、帰国を目指し満州から逃れてくる日本人が目立ち始めた。多くの女性が丸刈りにしていた。男から身を守るためだと聞いた。
秋が近づき、私たち一家も平壌を出ることになった。引き揚げ船が出る釜山を目指す。夜、平壌駅近くにトラックが迎えに来た。シートに覆われた荷台には、引き揚げ者が10人以上身を潜めていた。小学生は私だけだった。
翌日、市街地から離れた山道でトラックから下ろされた。10歳の私は母の遺骨を首に掛け、祖母は妹をおぶって歩いた。夜は眠くて足が重くなる。周囲から「お前のために遅れるわけにはいかない」と声が飛んだ。前を歩く男性の腰に巻いたひもをつかみながら、必死に足を動かした。
民家の軒先で野宿し、住民から調達したわずかなおにぎりが配られた。10日近く歩いただろうか。北緯38度線が近づくにつれ、ソ連兵による検問が増えた。38度線を挟んで北朝鮮側をソ連、南朝鮮側を米国が管理する分割占領が始まっていた。
道路の向こうで大人たちが銃を持ったソ連兵と話していた。ソ連兵は一緒に歩いてきた若い女性を指さし、「女性を差し出さなければ道を通らせない」と迫った。山口か島根出身の女性だったと記憶している。
「この人だけを置いてはいけない」。大人たちは女性を守る方法を懸命に考えていた。だが、代わりに渡せる時計や服は残っていない。何度掛け合っても拒否された。
その時、女性が口を開いた。「皆さんと一緒に日本に帰れると思えたことが、うれしかったです。私のことは気にせず、日本に向かってください」
女性は1人でソ連兵の元に歩き出した。しっかりした足取りだった。私はその背中を見つめるしかなかった。子どもながらにソ連兵に対する怒りがこみ上げてきた半面、「日本に戻れるんだ」と安堵(あんど)の思いがよぎったのも事実だ。
女性を残し、境界線を通過した。現在のような物々しさは感じられず、言われなければ分からないような場所だった。
テント村で1週間過ごし、汽車で釜山へ向かった。貨物船で博多に着き、故郷の鹿児島に戻ったのは46年10月ごろだったと思う。それから5年後、シベリアから帰還した父とも再会した。
何とかして、女性と一緒に帰ることはできなかったのか-。年を重ねても、彼女の背中が脳裏から離れない。「戦争は人間性を奪い、女性や子どもが犠牲になる。二度と起こしてはならない」。その思いを胸に刻んで生きている。
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