2021/02/14 11:00

九七艦攻と「天山」の修理。整備を終えた機体は枇榔島を敵基地に見立てて試験飛行。年の近い同僚が帰ってこなかった。兵舎の入り口に「戦死」と書いて弔った〈証言 語り継ぐ戦争〉

串良基地での戦争体験を振り返る丸目南兵衛さん=志布志市有明町野神
串良基地での戦争体験を振り返る丸目南兵衛さん=志布志市有明町野神
 ■丸目 南兵衛さん(94)志布志市有明町野神 

 3人きょうだいの長男として生まれた。父親は旧西志布志村(現志布志市有明町)の役場に勤める傍ら、3ヘクタールほどの畑でサツマイモと菜種を育てていた。ひもじい思いをすることはなかった。

 旧制志布志中学校では身体能力が高い方で、飛行機乗りに憧れた。卒業後の1944(昭和19)年6月、海軍飛行予科練習生(予科練)となり、愛知県の岡崎海軍航空隊に入隊した。

 6カ月間、精神教育と体育教育を受けた。「大和魂に敵はない」と歌い、走ってばかりいた。長距離の行軍訓練や近くの川で泳ぐ練習もした。

 予科練を終え、操縦の訓練をするため串良航空基地に配属された。串良に向かう途中、大分県の宇佐海軍航空隊で1カ月間待機することに。理由は分からなかった。兵舎が足らず、近くの小学校を宿舎として使った。疎開していたのか、学校に子どもたちはいなかった。

 45年初めに串良基地に入った。操縦訓練に使える機体はなく、整備を命じられた。

 串良基地には全国から九七式艦上攻撃機(九七艦攻)とその後継の「天山」が修理のために飛んできた。午前6時半に起き、無線連絡が来るのを待つ。艦攻が到着したらエンジンを下ろし、近くの山中に造られた横穴で整備して、また取り付ける。知識はなく、先輩の作業を見ながら手順を覚えた。

 班は15人ほど。みな年が近く、パイロットを志望していた。

 整備を終えた機体は、志布志湾内の枇榔島を敵基地に見立てて試験飛行した。整備担当者も乗り込み、機器類に故障があれば機上で直した。数回乗せられたが、古い機体ばかりで落ちないか不安だった。年の近い同僚が試験飛行から帰ってこないことがあった。海に落ちたとみられた。兵舎の入り口に「戦死」と書いて弔った。

 当初は1日平均2、3機を修理したが、6月ごろにはほとんど機体が来なくなった。串良基地では4月に特攻作戦が始まっていた。艦上攻撃機を使った特攻もあった。

 やることがなく、退屈な日が続いた。ぼーっと待つ時間が長く、遊ぶこともない。「空母もやられた」と聞き、戦況は厳しいと分かった。

 5月ごろから串良基地でもたびたび米軍機の空襲に遭った。多い時は週2、3回、朝早くか夕方に飛来。そのたびに基地の外へ走って逃げたが、数人が爆発に巻き込まれるなどして命を落とした。滑走路が使えない状態になると、米軍は来なくなった。

 「戦争が終わった。解散」。8月15日、基地内の連絡事務所からの知らせで敗戦を知った。その日のうちに数キロ離れた串良駅で列車に乗って、実家の最寄りの志布志駅に向かった。

 敗戦は悔しかった。しかし、軍用機の整備をしながら日本の軍備のもろさを感じていた。負けるだろうと考えていたから、冷静な心持ちでもあった。日本はアメリカの土地になるのではないかと、今後が心配だった。

 私の世代は戦争のために生まれたようなもの。今も串良で一緒に機体整備をした仲間2人と話す機会があり、そのたびに「死なずに済んで良かった」と語り合う。戦争は殺し合い。無駄な戦いだった。日本は二度と戦争を起こさないでほしい。

※2021年1月17日付掲載
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