2021/04/02 16:40

連載「荒野をゆく 赤﨑勇物語」(下) 不屈の探究心、愚直に「噛んつけ」

大龍小の創立記念式典の講演を終え、児童から花束を手渡される赤﨑勇さん=2014年2月、鹿児島市のかごしま県民交流センター
大龍小の創立記念式典の講演を終え、児童から花束を手渡される赤﨑勇さん=2014年2月、鹿児島市のかごしま県民交流センター
 南九州市知覧出身の赤﨑勇さん(85)=名城大終身教授=のノーベル物理学賞決定から一夜明けた8日、祝福の輪は県内各地に広がった。母校の大龍小学校の児童や甲南高校の生徒は、地道な努力を重ね、世界をともす「青い光」を開発した先輩の偉業をあらためてたたえ、南九州市は懸垂幕を掲げて喜びを分かち合った。

 赤﨑勇さん(85)の名古屋市の自宅には桜島の絵画が飾ってある。「鹿児島での日々は自分の誇り。故郷の応援はいつも温かく、ここまで成長できたのは、故郷のおかげ」。青色LED開発にこぎ着けた粘り強い探求力は、少年時代に育まれた。

 赤﨑さんは1929(昭和4)年に旧知覧町で生まれた。幼いころ、鹿児島市の上町地区に移り、大龍小学校に入学。「家にいることはほとんどなかった。石拾いが大好きで外に出ると必ず石を拾ってコレクションをしていた」と笑顔で振り返る。

 2歳違いの兄・正則さん(87)=九州大学名誉教授、元福岡工業大学長、横浜市=も「凝り性で意志の固いところがあった」。

 赤﨑さんは、担任の「噛(か)んつけ」という言葉が印象に残っているという。「噛みつくように絶対に諦めないという意味だと思っている」

 旧制鹿児島二中(現甲南高)時代は戦時下で食料が不足。4年時の45(昭和20)年には学徒動員で長崎・佐世保市の海軍工廠(こうしょう)で働いた。鉄拳制裁のある過酷な生活で、とても勉強に打ち込める環境ではなかった。終戦後、二中の校舎は進駐軍に接収され、伊敷の練兵場跡に移った。実家は空襲で焼け、家族が疎開した川上町から長い道のりを通学した時期もあった。努力は怠らず、「本をむさぼるように読んだ」と振り返る。

 当時から赤﨑さんの資質は同級生の間で評判だった。親友の増満基仁さん(85)=元県酪農業協同組合連合会長=は「特別な英語教育もない時代なのに、進駐軍と英語で会話ができるほどで驚いた」と話す。

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 学問における高い能力は、旧制七高から京都大学理学部を経て輝きを増していった。京大に入学した1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も大きな刺激になった。

 地道な研究が実り2011年、世界の電気電子工学分野で権威ある賞「エジソンメダル」を受賞した。発明王エジソンに由来するその賞の紹介文には「パーシステント・リサーチャー(不屈の研究者)」と記されていた。不屈の努力とひらめきで、世界に新たな光をもたらした「現代のエジソン」にふさわしい賞だった。

 自身の特許は国有とし、特許料の一部は名古屋大に入るようにしている。同大の「赤﨑記念研究センター」の設立、運営に充て、後輩たちが研究できるようにとの思いからだ。

 「沈黙は金、雄弁は銀って言うでしょ。鹿児島ではそんな気風がある。あんまり自己宣伝みたいなことはしちゃいけない」。有名な賞を数々受賞しても謙虚な姿勢は変わらない。

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 今年2月、鹿児島市であった母校・大龍小の創立130周年の式典で、子どもらを前にこう話した。「『はじめに光ありき』という言葉がある。はじめにたいまつや台所の火があり、エジソンは白熱電球を発明した。窒化ガリウムの研究を通して思ったことは、『研究に王道なし』『愚直一徹』ということだ」

 大龍小、二中、七高、京大と「良師益友に恵まれた」と感謝を述べ、研究や後進の指導などまだまだ続く研究者としての気概を示すようにこう締めくくった。「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」
(2014年10月9日付 南日本新聞)
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