「海軍々人精神注入棒」-それは虐待どころか殺人未遂だった 生き残ったことへの複雑な思い、長く戦争の話はしなかったが今伝えたい〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/04/18 11:30

「北朝鮮の映像を見ると、戦前戦中の日本を思い出してやるせない」と語る大薗哲則さん=鹿児島市日之出町
兵隊に志願したことが恥ずかしく、生き残ったことに複雑な思いもあり、長く戦争の話はしてこなかった。最近になって、伝えておきたいと考えるようになった。
1943(昭和18)年、旧制志布志中学校(現・志布志高校)1年の13歳時に海軍に志願した。学校に行っても毎日、軍事教練ばかり。学費を出してくれた兄が徴用されたらどうなるのか、四男として授業料が心配だった。親や兄たちに相談せずに願書を出し、したたか怒られた。
電信兵に採用という通知を受け取った時はホッとした。飛行機に憧れたので飛行予科練習生になりたかったが、これで満州に行かずにすんだとも思った。当時は「銃をとるかクワをとるか」という雰囲気。兵隊にならなければ、満蒙開拓団か軍需工場への道と思っていた。
44年4月、佐世保鎮守府から5月に防府通信学校(山口県)に入学するよう通知が届いた。入校までにモールス符号を覚えておくように言われ、1カ月足らずで完全にマスターした。おかげで実際の訓練では苦労しなかった。
入隊直後1カ月の新兵教育ほどハードな生活はなかった。広い練兵場で何度も何度も行進。少しでも足並みがそろわなければ教官が飛んできて、ビンタをした。夕食後は「海軍々人精神注入棒」と書いた棒で打たれる人も。虐待どころか殺人未遂行為だった。「構えろ」と声が掛かり、たたかれた後は「ありがとうございました」と一礼。今の人には理解できないだろう。初めて打たれた時は脳の芯まで響く痛さだった。故郷の両親を思い出して涙があふれた。
宇佐通信演習所(大分県)に移動し、約2カ月の通信演習があった。無線状態がとても悪く、5段階で評価した感度はほとんど「悪い」か「やや良好」。日夜、必死でレシーバーに集中し、祖国日本を守ろうと符号を文字に変換した。
ある日、教官にそっと「面会よし」とささやかれ、父にはがきを出した。「もうすぐ卒業で、どこに配属されるか分からないが、帝国海軍軍人としてお国にために身命をささげる覚悟ができている。都合がつけば面会したい」と書いた。経済的に余裕がない家だったので半ば諦めていたが、10日ほどたって教官室に呼ばれて面会を告げられた。
降りしきる雪をかぶった父が退避壕(ごう)で待っていた。軍服軍帽姿のわが子を初めて見て声にならないようだった。「元気じゃったか」と聞かれた。30分の限られた時間。今生の別れを覚悟していたものの、会話はぎこちなかった。母の手作りの餅が懐かしかった。
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