2021/05/16 11:00

父親にあこがれ海軍に。小さな警備船「飛鯨」の電信係になった。同期の石畑君が乗った輸送船は魚雷で沈没。3日間漂流し力尽きたと聞いた。16歳。どんなに無念だったろう〈証言 語り継ぐ戦争〉

海軍兵時代の写真や資料を掲げ、不戦を訴える久保卓さん=錦江町田代川原
海軍兵時代の写真や資料を掲げ、不戦を訴える久保卓さん=錦江町田代川原
■久保卓さん(91)錦江町田代川原

 海軍機関兵の父親にあこがれ、1943年に海軍を志願した。田代尋常小学校(現錦江町)の高等科2年生で15歳だった。電信兵として採用され、山口県にあった防府海軍通信学校に翌年5月入学した。

 1カ月は新兵訓練で、銃の撃ち方や水泳、手旗信号を習った。殴られたり、蹴られたりと厳しい毎日だった。

 その後、通信技術の講義が始まった。モールス信号の送受信や通信ルールを学び、学科と実技の試験が毎週あった。「秘」「極秘」などと刻印された教本は表紙が赤色で「赤本」と呼ばれた。教官室に保管された教本の管理係を任され、講義のたびに50人分を配布、回収し風呂敷に包んで運んだ。

 根占(現南大隅町)出身で同期の石畑広君と知り合い、家族や故郷のことを語り合って仲良くなった。教官の浜田秋穂上等兵曹は枕崎出身で熱心に指導してくれた。おかげで技術が上達し、成績上位の班に在籍できた。

 卒業を控え44年12月末までの1カ月は、大分の演習所で戦地を想定した訓練を受けた。月半ばに母親が面会に来た。10分ほどのわずかな時間、互いに涙を浮かべて見つめ合った。凍傷で骨が出た私の指を見て、泣いた母を今も覚えている。

 45年1月上旬、防府海軍通信学校を卒業。故郷に近い鹿屋の航空隊に赴任することになり喜んでいた。だが、移動日の夜中にたたき起こされ、長崎の佐世保通信隊勤務を命じられた。

 多くの同僚が沖縄に送られ帰らぬ人となった。自分も覚悟していたが3月末、中国の青島(チンタオ)方面特別根拠地隊に転属となった。暗号の技術を習得し、5月末には小さな警備船「飛鯨」の電信係に任じられた。

 石畑君の戦死を知ったのはこの頃。上海陸戦隊赴任のため乗っていた輸送船が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた。彼は3日間、海に浮いていたが力尽きたらしい。どんなに寒かったことか。生存者から話を聞きながら、いたたまれなくなった。

 飛鯨は、砲弾や武器を青島から大連に運ぶ貨物船の護衛に当たった。到着の数日前に米軍機の攻撃で貨物船が撃沈された。戦場を初めて体験した。爆発で高々と上がった水柱を目の当たりにし、背筋が凍り付いた。

 飛鯨は無事だった。青島の司令部に「貨物船が沈没。生存者の救助に向かう」と送信すると、「救出して青島に帰還せよ」との命令だった。十数人を救助し帰還して上官に報告すると、「貨物船が沈んだくらいで重大な電信を打つな」と叱られた。敵に察知されるとの意味だった。

 7月末には青島で通信隊の陸上勤務になった。空襲はなく平穏だったが、間もなく終戦を迎えた。隊では「銃殺される」とのうわさが流れた。逃亡する同僚もいたが、上官の命令に従い、残ることにした。

 山中の収容所に連行され、捕虜生活が始まった。中国兵に銃を突き付けられ、子どもから石を投げられた。敗戦で立場が入れ替わり、惨めな思いをした。

 45年12月末、米の艦船に乗船し、佐世保に上陸した。うれしかった。鹿児島駅に着くと一面焼け野が原になっていた。鹿児島港で知り合った大根占の人が船に乗せてくれて、田代に帰郷することができた。

 石畑君の南大隅町の墓に毎年墓参している。16歳で命を落とし、どんなに無念だっただろう。今まで生き永らえたことに感謝しながら、若者の命を奪う悲惨な戦争を二度としてはならないと改めて思う。
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