種子島海峡をゆく駆逐艦「夕凪」。行き先はガダルカナル。夜襲訓練で使った魚雷は回収。引っ張り上げるのが一苦労だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/06/18 10:00
「水兵時代、初めてセーラー服の晴れ姿で古里に戻った時は誇らしかった」と回想する荒木政雄さん=西之表市西町
「水兵時代、初めてセーラー服の晴れ姿で古里に戻った時は誇らしかった」と回想する荒木政雄さん=西之表市西町
■荒木政雄さん(99)西之表市西町

 1942(昭和17)年8月、ガダルカナル島の争奪を巡る第1次ソロモン海戦に駆逐艦「夕凪」で参戦した記憶は今も色あせない。母の祈りが届き、この年まで生き永らえたのだろう。

 親に黙って海軍の試験を受けたのは、旧制種子島中学(現種子島高校)3年の16歳の時だった。「いつか徴兵されるなら、志願して同級生より偉くなろう」と意気込んだ。勉強も嫌いだった。

 英語の教師に向かって「いつか日本が全世界を治めるので、みんな日本語になる。英語は勉強しない」とたんかを切ったことも。もし負けたらどうすると迫る教師に「負けるなんて絶対言ってはいけない。日本は勝つ」と言い返した。

 4年に進級して合格通知が届いた時はうれしかった。幼い頃に大病を患い再発の恐れもあると医者に言われており、病死するなら戦病死の方が名誉。担任もすごく喜んでくれた。学校で送別会を開いてもらい、1人で軍歌を勇ましく歌った。西之表港で大勢の人が見送ってくれた。

 38年6月、佐世保海兵団に入団した。新兵教育後、三等水兵として軽巡洋艦「川内」乗り組みとなり、中国・南京で日中戦争に参戦。野球バットのような「軍人精神注入棒」で上官からだいぶ気合を入れられた。

 日本各地での夜襲訓練もあった。海上にワイヤを張り、敵艦に見立てた標的物に大砲や魚雷を撃つ。魚雷は大砲と違い回収しなければならず、引っ張り上げるのが一苦労だった。

 鹿児島湾や志布志湾は保養場所だった。訓練後に「陛下から」とお神酒がよく配られた。何も知らずに湯飲みいっぱい飲み干してしまい、魚雷発射管の下で寝てしまってからは酒を飲まない。

 揚子江(長江)警備のため移った砲艦「比良」で、風邪をこじらせて入院。養生のため佐世保海兵団に戻っていた時、41年12月8日の太平洋戦争開戦を迎えた。

 下宿先に戻ると、珍しく軍艦旗が揚がっていた。非常呼集かと思ったら、上官に「貴様たち、ぼやぼやするな。日本は米英に宣戦布告したぞ」と聞かされた。いずれ始まるだろうという雰囲気があり「やった、いよいよ戦争だ」と思った。

 少しでも早く昇進するため、普通科機雷術練習生として久里浜(神奈川県)の機雷学校へ。5カ月間、寝床のハンモックやトイレ、食事中も必死に勉強した。成績上位で卒業でき、42年6月、晴れて夕凪の乗艦となった。

 陸軍兵や慰安婦を乗せた御用船の護衛を兼ね、間もなく下関(山口県)から南太平洋へ出発。夕暮れ時、種子島海峡に差し掛かり、左に種子島、右に屋久島を眺めながら「見納めかも」と思った。今も情景が目に浮かぶ。怖いとは思わなかったが、ついに戦場へ行くのだと思った。

ガダルカナル島を巡る戦い

 1942(昭和17)年8月7日、米軍がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、日本軍の飛行場を占領。奪還を目指す日本軍は8日、第1次ソロモン海戦となる夜襲を決行した。連合国軍の重巡洋艦4隻を沈めるなど久しぶりの戦果を上げたものの、輸送船団を攻撃せずに逃していた。第2次、第3次海戦や陸軍部隊の派遣と半年にわたり死闘を繰り広げたが、補給が続かず撤退。これを機に日本軍は太平洋戦争で劣勢になっていった。