2021/07/23 21:15

〈コロナと祈り〉日曜ミサ がらんとした聖堂 縮小する儀式 「共同体の意識薄れる」

人数制限をして開いているザビエル教会の日曜ミサ=鹿児島市
人数制限をして開いているザビエル教会の日曜ミサ=鹿児島市
〈コロナと祈り 宗教は今㊤〉

 民衆の心のよりどころとなってきた仏教やキリスト教などの伝統宗教が、新型コロナウイルス禍で不安を抱える人々をどう癒やすか模索している。法事やミサといった、人々が信仰をつなぐ儀式は中止や制限を余儀なくされた。人や社会との関わりを断たれて苦しむ弱者も生まれている。長引いた「緊急事態」で政治への信頼が薄れ、ワクチン普及、特効薬開発など科学の力も及んでいない今、宗教はどんな役割を果たすのか。鹿児島の宗教者に聞いた。

 「希望と慰めのよりどころである聖マリア、苦難の内にある私たちのためにお祈りください」。6月20日、鹿児島市のザビエル教会で行われた日曜ミサ。約60人の参加者は、コロナ前の3分の1に満たず、聖堂はがらんとしている。

 同教会は全国に緊急事態宣言が出た昨年4月に日曜ミサを一時中止した。約2カ月後に再開したものの、「密」にならないよう約200人の信徒を3グループに分け、日曜ミサに参加できるのは3週に1回になった。長年教会に通う男性(70)は「教会に来ないと落ち着かないので、ミサに入れない日は人が少ない早朝に訪れている。(マスクをして声を落とすので)聖歌の音量も普段の10分の1くらい」と寂しがる。

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 「一つに集まって儀式を共有することができないと、共同体の意識が薄れてしまう。これは信仰の大きな危機」と同教会の小隈憲士(こぐま・けんし)主任司祭(69)は苦悩する。

 カトリック教会で行われるミサは、仲間とともに神に賛美や感謝をささげ、信徒としてのアイデンティティーや心の糧を得る儀式。教会に集うことに意義がある。一方で、新型コロナは人が集まると感染リスクが上がる。海外では新興宗教団体から拡大した事例もあるだけに「教会でクラスター(感染者集団)を発生させるわけにはいかない」。

 人数制限のほか、指を清める聖水盤の使用をやめ、聖堂の入り口に消毒液を吹きかける機器を設置した。いすは1列おきに使用し、黄色い目印を張って隣との間隔も開けてもらう。扉も開け放っている。日本カトリック司教協議会が定めた感染症対応ガイドラインを守り、規模を縮小して「信者の義務であり権利でもある」ミサを続ける。

 とはいえ、集うことを封じられた事態は受難にほかならない。「特につらい思いをしているのは施設や病院にいる高齢信徒。親族でさえ面会が難しい中で十分な配慮ができないでいる。弱い人たちが一番苦しんでおり、無力さに天を仰ぐこともある」と小隈は話す。そんな時は「あなたたちを決して忘れてはいません」と祈る。

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 ミサでは毎回、病に苦しむ人、感染の終息に向けて取り組む人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康を願い、亡くなった人の安らぎを祈り、不安や混乱に直面する人への支援を唱えて、神に導きを求める。

 祈りを可視化するため、クリスマスなど折々に思いをつづり、文書伝道にも努める。「私たちは誰一人として忘れられた存在になってはならない」「希望を失うことなくいっしょに試練を乗り越え、信仰を大切に生きてゆきましょう」と思いやり、励ます。

 文書の中で小隈は、コロナ禍の不便な日常で「いのちと生活を守ってくれる不可欠な働き手の存在」としてエッセンシャルワーカーらに思いをはせる。「私たちが当たり前と思っていた生活は当たり前ではなかった。コロナによって利己ではなく、他者を生かす生き方について視野を広められた」と気づかされた。

 今、誰に手をさしのべるべきなのか。教会は路上生活者への毎週1回の食事支援を続けている。国の給付金を一部の信徒とともに、外国人の支援に充てた。「声さえ上げられない人たちがいる。宗教者はそういう人々にまなざしを注ぎ、傍らにいられるのか」と自問する。
(敬称略)
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