2021/07/25 10:30

晴れて近衛兵。歩きは75センチ幅で1分間114歩、駆け足は85センチ228歩。1ミリもたがわぬよう朝夕訓練した〈証言 語り継ぐ戦争〉

初年兵当時の今元正夫さん(前列左)。近衛兵時代の写真は母親が処分した
初年兵当時の今元正夫さん(前列左)。近衛兵時代の写真は母親が処分した
■今元正夫さん(98)志布志市志布志町内之倉

 地元志布志の青年学校は5年間皆勤賞で、銃剣道も成績優秀だった。校長によくほめられた。卒業後の1943(昭和18)年7月、徴兵検査を受け甲種に合格した。天に昇るほどうれしかった。20歳だった。翌年4月、近衛兵要員として鹿児島市の伊敷にあった歩兵第18部隊に入った。

 3カ月間の訓練が終わり、東京の近衛歩兵第8連隊に転属となり、晴れて近衛兵になった。兵舎は当時、麻布にあり「東洋一の威容」を誇ると言われていた。上官からは「お前たちは戦地には行かないが天皇陛下、皇族、皇居を守るのが本望だ」と教育され、大変名誉で言葉にできないほどの喜びだった。

 近衛兵は全国からのよりすぐりで、農家出身の青年学校卒業者が多かった。上官から殴られたり蹴られたりすることはなく、「口で言えば理解できるだろう」という感じだった。しかし、説教が長かった。「これなら一発殴られた方が早く済んでいい」と思った。

 皇居は玉砂利の道を歩くサクサクとした音が心地よかった。敷地内には馬小屋、乗馬の練習場、女官の家などたくさんあり、実地教育では場所を覚えるのが大変だった。

 祝日には二重橋前の広場で観兵式があった。歩きは75センチ幅で1分間に114歩、駆け足は85センチ幅で228歩と決められていた。朝夕、どこに行くにも歩幅が1ミリもたがわぬよう訓練した。本番では陛下(昭和天皇)の前を行進し、幼かった当時の皇太子殿下も参列されていたことを覚えている。

 本格的に皇居での任務が始まると、各門で立哨、歩哨に就いた。敷地内にはキジやウサギがおり、外堀にはカモ、オシドリもいた。人が狩ることがないので安心していたのだろうか。いろんな動物がいて驚いた。

 一方で、戦争は確実に激しさを増していた。東京は焼夷(しょうい)弾の攻撃を受け、皇居の衛兵でも直撃を受け亡くなった人がいた。街が焼かれても近衛兵には皇居を守る任務がある。市中になかなか出向けなかった。

 それでもB29爆撃機が墜落し、民家が4、5軒ぺしゃんこになった現場を見たことがあった。空襲後の焼け跡にあった地下壕(ごう)では、家族6人が抱き合ったまま亡くなっていた。正視できなかった。

 ついに45年8月15日、終戦を迎えた。その夜、酒に酔った職業軍人だった上官が「腹を切って外堀に飛び込むぞ」と暴れた。近衛兵の仲間は「するなら自分たちだけでやれ」と反発した。

 その後、復員命令が出た。兵舎には米部隊が入ることになっていた。私物を背負い、門で米兵と入れ替わりの敬礼をした。その際にマッカーサー元帥らしき姿が見えた。「日本の軍国主義は終わった」と思った。

 故郷に持ち帰ってきた身の回りの品、軍服、アルバムなどはすべて母親が焼却処分した。息子が元近衛兵とばれたら、米軍に殺されると本気で心配していた。

 戦争中はわれわれ近衛兵が天皇陛下を守り、ほかの兵隊が戦争に勝ってくれると信じ切っていた。しかし、勝っても負けても戦争はよくないと気付いた。平和な世の中が何よりうれしい。
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