103歳の証言 孤立無援のブーゲンビル。3発被弾でも手術は受けられず、赤チン塗って退院。銃弾は50年以上体に残っていた〈語り継ぐ戦争〉
2021/08/02 10:00

復員船時代の氷川丸。田平操さんもこの船で帰国した(日本郵船歴史博物館所蔵)
タロキナ作戦の後、ブーゲンビルの日本軍は孤立無援の状況に陥った。1944(昭和19)年4月に入ると、連合軍の進攻が活発化。特に私のいた西側は激しく、何度も死線に直面した。
南西部のモシゲタでの話である。米軍はフィリピンに転戦し、交代した豪州軍の南下を阻止する戦いだった。
三差路近くにある敵の陣地に、われわれは夜のうちに近づいた。夜明け前、「敵の後方に回り就寝中かどうか偵察しろ。撃ち合いになったら、すぐに引き返せ」と命令され、曹長と2人で向かった。間もなく私たちの後方で撃ち合う音が聞こえた。
引き返すと部隊は三差路よりさらに20~30メートル前進し、そこで戦友たちは倒れていた。一緒にいたらおそらく死んでいただろう。
□ ■ □
45年4月から5月下旬にかけてホンゴライ川付近であった戦闘では、絶体絶命のピンチに立たされた。「引け」という伝令が私たちには伝わらず、隣にいた初年兵と取り残されてしまった。
遠くから「引けといわれてるぞ」という声が聞こえ、初年兵は立ち上がった。そこを撃たれた。負傷者を連れては戦えない。部隊を離れると逃亡になる。仕方なく彼を連れて連隊本部に戻った。事情を話して預けた後、部隊を探したが、全滅したのか見つからなかった。
再び本部に戻り、そこにいた中佐や大尉、下士官らと隊を組んで攻撃に向かった。そんな戦い方だった。
その戦闘中、下腹部を撃たれた。「引け」の命令があったが、立ち上がれない。戦友が私を引きずるように連れて行ってくれた。
ブイン第一野戦病院に運ばれた。手術は受けられず、まともな治療もしてもらえなかった。周辺も毎日爆撃され、病院自体が吹き飛ばされた。「歩ける兵隊は退院せよ」と命令が下された。
腹部に3発の銃弾が残った状態だったが、「ここにいても死ぬだけだ」と思って退院することにした。渡された赤チンキを包帯にしみこませて針金に付け、自分で傷口から差し込んで手当てした。10日ぐらいかけて戦闘中の部隊に合流した。
□ ■ □
ある日、銃撃がぴたりと止まった。やがて、日本が降伏したという情報が伝わってきた。「ブインに集結せよ」との命令があり、到着すると、兵器や弾薬を始末させられファウロ島に集められた。
そこで豪州軍の捕虜になった。豪州兵が毎日迎えに来て、いろいろな場所でヤシの木を切るなどの作業をさせられた。栄養失調でまさかりを振り上げる力が出ない日本兵もいて哀れだった。
46年3月に日本郵船の氷川丸で帰国できることになった。10日間かけて神奈川県の浦賀港に着いた。故郷の川内に帰り、食うために兄を頼った。その後、妻トミと結婚。田平姓となり、2人で農業を始めた。重労働と体に残った銃弾のせいで腰に痛みを感じながら働いた。
50歳を過ぎて痛みが増し始めた。96年12月に川内医師会立市民病院で手術し、体内に50年以上入っていた銃弾を取り出してもらった。
何度も死ぬ思いをした私が生き残り、103歳まで長生きしている。運があったと思う。
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