【特攻この地より 終の便り】友の絶筆求めた慰霊の旅。「生き残った理由を考えんな」。知覧再訪と特攻の母の一言が背中を押した

 2021/08/10 21:30
特攻仲間の写真や遺書の複写を前にする板津忠正さん=愛知県犬山市の自宅
特攻仲間の写真や遺書の複写を前にする板津忠正さん=愛知県犬山市の自宅
(南日本新聞2014年12月20日付に掲載しました。年齢、肩書などは当時)

 太平洋戦争末期、日本軍は飛行機ごと体当たりさせる特攻作戦を展開した。本土最南端の基地として陸軍最多の出撃機を飛び立たせた知覧は、その代名詞とも言える。この地にまつわる遺書や手紙が伝えるものを探る。

 1945(昭和20)年5月28日は、命日のはずだった。

 当時20歳。両親と小学校の先生あてに感謝を伝える遺書を書き、辞世の句を残した。「靖国の戦友(とも)に遅れはとらじとて 我も散らなん沖縄の沖」

 沖縄沖の米軍艦隊に向けた第9次航空総攻撃のその日午前5時、板津忠正さん=愛知県犬山市=は、知覧基地(南九州市知覧)を飛び立った。陸軍特攻第213振武隊の一員だった。

 だが、乗っていた97式戦闘機のエンジン故障で徳之島に不時着してしまう。知覧に戻ってから2度の出撃命令を受けたが、雨で中止。6月下旬の沖縄陥落後も本土決戦要員として知覧にとどまり、終戦の日を迎えた。

 「一緒に出撃した人が死んでるのに、のうのうと生き残った。僕ほど運の悪い男はいない」

 年が明ければすぐ90歳になる。

 ◆ ◆ 

 終戦から3日後、板津さんら隊員は「すぐ帰れ。米軍に見つかったらまっさきに殺される」と指示された。追い立てられるように知覧を離れた。

 戦時中は「軍神」「神鷲(かみわし)」とあがめられた特攻隊員たちも、戦後、価値観の変わった社会には受け入れられなかった。生き残った隊員の心にも、深い負い目が消えなかった。

 故郷の愛知に戻り、名古屋市職員になった板津さんは戦後30年間、特攻隊員だったことを周囲に隠し続けた。生き残りには自殺者も多かったが「勇気がなかった。悩んで悩んで、心から笑った記憶はない」。もともと酒も飲まず、たばこも吸わない。代わりに「夢中で仕事に打ち込んだ」。

 74年、転機が訪れる。知覧基地跡の平和公園に「特攻勇士の像」が建ち、除幕式に出席した。出撃前の特攻隊員を世話した地元の食堂店主、鳥浜トメさんと再会。「生き残った理由を考えんな」と諭された。50歳だった。

 すぐに特攻仲間の「慰霊の旅」を始めた。厚生省復員局の陸軍特攻戦没者名簿を手に入れ、遺族に手紙を出した。だが誤りが多く、宛先不明で帰ってくるケースも多かった。返事があれば直接訪ね、手紙で連絡がつかなくても現地に行って粘り強く人探しを重ねた。

 遺族に会うと、基地での最後の様子を伝えた。特攻作戦は軍機密で、息子の出撃の詳しい日時、場所さえ知らない親もいた。

 行脚を続けるうち遺書の散逸が気になった。自分の棺おけに一緒に入れてくれ、と頼んでいる親も多かった。

 「特攻があった真実を後世に語る遺書が消えていくのは国家的損失。何とか残せないか」

 洋上で死んだ特攻隊員にとって遺書は遺骨代わりだ。彼らがどんな気持ちで書いたのか。その気持ちまで忘れ去られていくのは、遺書を書いた一人としてたまらなかった。慰霊の旅は、遺書、遺影を集め、記録する使命も帯びていく。

 ◆ ◆ 

 年月がたつ焦り。仕事の片手間では追いつかない。54歳で役所を早期退職した板津さんは本格的に全国を探し歩いた。手に入れた特攻仲間の“形見”は、知覧町が開設した遺品館に提供した。

 遺品館から特攻平和会館に移行した87年の前後4年間は、請われて初代事務局長を引き受けた。準備に携わりながら、自らの体験を交えて案内人を務めた。沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員1036人にまつわる会館の展示資料のおよそ1割は、板津さんが“余生”をかけて集めたものだ。

 「ああいうものを残すこと自体、特攻を美化するという理由で気に入らない人もいた。だけど記録は記録として残すべきだと思った」「この世に私がおらなけりゃ、何も残らなかったでしょう」

 取材の数日前に精密検査を受けたが、医者が驚くほど悪いところは見つからなかった。生きぬいたことの意味を、ひしひしと感じている。

(連載は「特攻この地より かごしま出撃の記録」として出版)

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