2021/08/28 11:00

不時着し捕虜になった米兵。はだしで歩かされ、足や頭は血だらけ。空襲を受けた住民は、男も女も棒で彼をたたいた〈証言 語り継ぐ戦争〉

自宅庭で戦火をくぐり抜け、神棚に祭られるお稲荷様のご神体と中精一さん=鹿児島市皷川町
自宅庭で戦火をくぐり抜け、神棚に祭られるお稲荷様のご神体と中精一さん=鹿児島市皷川町
■中 精一さん(87)鹿児島市皷川町

 1945年、鹿児島師範学校付属小学校(現鹿児島大付属小)の6年生だった。自宅は鹿児島市薬師の旧制鹿児島一中(現・鶴丸高校)近くにあった。父は鹿児島師範学校の柔道教師だったが、当時は3回目の召集を受けて不在で、私は母と祖母と暮らしていた。

 3月ごろから市中心部の被災を聞くようになっていたが、少し離れた薬師周辺は、田んぼが広がる静かな地域だった。

 6月17日は満月に近い夜だった。午後11時半ごろ、サイレンが鳴り、台所のすりガラス越しに米軍機の影が見えた。ものすごい低空飛行で、慌てて寝間着のまま、母屋から少し離れた庭の防空壕(ごう)に駆け込んだ。直後、見知らぬ若者が「命の次に大切なものなので、預かってください」と厚い2冊の本を預けていった。

 梅雨の長雨で、壕の中はひざ近くまで雨水がたまり、中に置いていた貴重品は母屋に移していた。弾が降り注ぐ中で、何度か取りに行こうとしたが、とても無理だった。

 弾から流れ出た黄リンは、地表に沿って青白い炎を上げて木造家屋を焼き尽くした。壕の戸を少し開け、隙間から自宅が焼けていくのを見るのはつらかった。壕の戸にも引火したが、3人で中から雨水をかけて助かった。

 ようやく静かになって外に出ると、一面焼け野原。鹿児島一中の校舎は、まだ燃えていた。赤い炎が朝焼けの青白い空を照らす光景が、今も記憶に残る。本を預けた若者は、無事に取りに来た。

 私たちは着の身着のまま、汽車で叔母が住む万世町小湊(現南さつま市)へ避難することにした。西鹿児島駅(現JR鹿児島中央駅)に向かう途中の家々は全て焼け落ち、焼い弾の直撃で負傷した人など、言葉にできない姿を目にした。金も無くどうやって乗車したのか覚えていないが、無事小湊に着いた時の安ど感は忘れない。

 それもつかの間だった。7月になって近くの万世飛行場への攻撃が増した。当時600戸ほどだった小湊の集落も、機銃掃射を受けるようになった。近くの家は攻撃で蜂の巣のようになり、私も至近距離に何発もの弾が飛んでくる恐ろしさを知った。

 ある日、近くの海に米軍機が不時着したと聞いた。程なく自宅前の道が騒がしくなった。外に出ると、両手を縛られた若い米兵捕虜が日本兵に引きずられ、万世方面に向かうところだった。

 はだしで歩かされ、足や頭は血だらけ。米兵を、住民が男性も女性も、棒や物干しざおで激しくたたいた。つられて私もくわの柄を持ち出したが、血だらけの人をたたくことはできなかった。

 その時の米兵は生きて国に帰れたのだろうか。帰りを待っていたであろう家族のことを思うと、あの光景が焼き付いている。私の父も当時は所在不明だったが、幸いこの年12月に帰ってきて、後に鹿児島大学で教授の職についた。

 大学卒業後官僚となった私は、終戦から約30年後、ブラジルにある農業関連の国際研究所に赴任した。

 あるとき、同僚の米国人研究者が欧州戦線で父親を亡くしたことを知った。以来、その研究者とは仕事の話しかできなくなった。

 戦争は勝っても負けても、双方に取り返しの付かない犠牲を強いる。いかなる状況でも戦争だけは避けるべきだ。
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