【米空母で拾った特攻隊員の財布を巡る物語①】「祖父から父、僕に課された宿題です」 アメリカ人の婿が並べた7枚の写真。戦闘機の前に立つ飛行服姿の青年が。遺族捜しのドラマが回り出す

 2021/09/04 11:00
米空母の甲板で特攻隊員の遺品を拾ったウィルソン・バートレットさん
米空母の甲板で特攻隊員の遺品を拾ったウィルソン・バートレットさん
 太平洋戦争末期、比・ルソン島西方を北上する米護衛空母の甲板で、日本の特攻隊員の遺品を拾った海軍士官がいた。1995年に石川県の遺族を見つけだし、橋渡しをしたのが霧島市国分の伊地知和枝さん(77)と、7年前に70歳で亡くなった夫の南さんだ。関係者が鬼籍に入る中、改めて戦争記憶をつなぐ。

 話は95年初夏にさかのぼる。伊地知さん夫婦の前に、次女・希(のぞみ)さんとの結婚を控える米国出身のレイモンド・バートレットさんが7枚の写真を並べた。

 紋付き羽織の男性、かっぽう着に国防婦人会のたすき姿の女性、戦闘機の前に立つ飛行服姿の青年、右隅に数行の文字らしいものが見える日の丸の旗などが写る。「祖父から父、僕へと託された。持ち主の遺族を捜したい」と続けた。

 レイモンドさんの祖父、ウィルソン・バートレットさんは海軍士官だった。45年1月5日、乗り込んでいた米護衛空母「マニラ・ベイ」がマニラ沖で特攻機から波状攻撃を受ける。消火作業に走り回る甲板で焼け焦げた財布を見つけた。そこに入れてあった写真だという。実物は軍に提出し複写を保管。82年、形見に残して逝った。

 93年に国分市(当時)のALTの職を得たレイモンドさんは、「遺族捜し」の宿題を課されていた。だがどこから着手すべきか分からず、手つかずのまま。帰国を前に、結婚する女性の親を頼ったのだ。「そこからドラマが回りだした」。和枝さんは振り返る。

 和枝さんはその頃、国分郷土誌編さんの補助作業で市図書館に勤務していた。レイモンドさんの話を聞いた数日後、休憩時間に特攻に関する写真集をめくっていると、偶然、マニラ・ベイが攻撃を受けた直後の写真が目に飛び込んだ。

 艦に近づく特攻機の機影、黒煙を上げる空母、甲板上での消火作業…。その本を持ち帰り、夫にも見せた。「この甲板に焦げた財布が転がっていたのか」「写真の男女は特攻兵の両親ではないか」。夫婦の胸には、何とか遺族を捜し当てたい、という思いが湧いていた。

 95年6月、顔合わせで米国から来日したレイモンドさんの父、ランドルフさんらとともに、鹿屋航空基地資料館(鹿屋市)へ向かった。マニラ・ベイ襲撃前後の時期の特攻出撃者名簿から、第一八金剛隊、海軍兵学校72期の「丸山隆」という名前に目が留まる。

 遺された写真にあった日の丸の一枚。不鮮明だが、隅にかろうじて「不肖 隆書」と読める文字が見える。その前の数行、これは遺書かもしれない。それなら名前は「隆」ではないか、と見当をつけたのだ。

 早速、南さんは石川県七尾市の実家に宛てて、7枚の写真のコピーを同封し、照会の手紙を出した。

 1週間後、「驚きと嬉しさ、感動致しております」と返事が届く。財布の持ち主は丸山隆(ゆたか)さんと分かった。特攻死した時は22歳だった。

(南日本新聞2021年8月15日掲載)

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