2021/09/20 11:00

落下傘部隊をつくった兄。フィリピンで迎えた最期は実にむなしいものだった。ゲリラのだまし討ちで刀傷は全身に。顔も判別できなかったという〈証言 語り継ぐ戦争〉

落下傘の開発に当たっていた頃の尾畑耕平さん(左から2番目)
落下傘の開発に当たっていた頃の尾畑耕平さん(左から2番目)
■尾畑雄平さん(86)大阪府阪南市箱作

 四男の兄尾畑耕平は思い人を残し、1944(昭和19)年11月17日午前10時、落下傘部隊「高千穂降下部隊」の一員として、宮崎の新田原飛行場を飛び立った。翌日午後6時半、フィリピンのクラークに到着。その後南サンフェルナンド、マニラ、ルソンと移動している。

 こうした行程が分かるのは、母タケノや長兄徹夫が耕平の戦死にまつわる情報を集め、記録を残したからだ。二人の話では、耕平は開発に携わった落下傘で、同僚や部下が先に出撃してゆく姿をいたたまれない思いで見送っていた。ある日、結婚間もない陸軍士官学校の同期生が出撃命令を受けたと聞き、上官に直訴し半ば強引に出撃を代わったという。

 その同期生は戦後復員し、静岡で開業医となった。耕平に申し訳ないとの思いがあったのか、母や徹夫と手紙のやり取りを続けた。2人の死後は折に触れ、私に便りをくださった。ご本人が亡くなってからは奥さまやお子さんに引き継がれ、付き合いが続いてきた。

 徹夫は耕平の部下だった復員兵を探し当て、耕平が出撃してから戦死するまでの詳細を手紙で教えてもらった。耕平は落下傘部隊として散る覚悟だったはずだ。だが手紙で知った最期は実にむなしいものだった。

 耕平の部隊は住民ゲリラのだまし討ちに遭い、全身にひどい刀傷を受けた。武器や着ていた服は持ち去られ、耕平も顔が判別できないほどの状態だったという。どんなに無念だったことだろう。

 耕平の思い人だった女性は生涯独身を通した。宮崎から入来町(現・薩摩川内市)まで何度も耕平の墓参りに訪れ、すぐ上の姉百合子と親交があった。

 和歌山県の高野山で毎年、高千穂降下部隊の慰霊祭があり、何度か参列している。30年ほど前、その女性も百合子とともに参列され、その際初めてお会いした。ゆっくりと話す時間を取れなかったが、百合子によると、自宅に耕平の写真を飾り、欠かさず花を手向けていたという。

 耕平の戦死公報には昭和20年1月26日とある。数えの26歳だった。戦争があと半年早く終わり兄が生き延びたなら、何を成し遂げていただろう。少なくとも好きな女性と一緒になれたはずだ。

 一昨年、区画整理のため入来の実家を取り壊した際、仏壇の下から耕平の遺品や資料が出てきた。耕平が予科士官学校時代に書いた課題も見つかり、軍人として潔く戦場で散る覚悟がつづられてあった。

 戦時中の男子は富国強兵のスローガンの下、強い信念を持った軍人になるよう教えられてきた。「教育の在り方次第で人間はいかようにもなるのだ」と恐ろしさが身にしみる。

 次兄はシベリアで抑留死した。3番目の兄は満州からの引き揚げ途中に妻子を亡くし、単身で帰ってきた。戦後を生き抜いた母も、他の兄や姉たちもこの世を去り、高千穂降下部隊について知る人は少なくなった。残された記録を頼りに、耕平や部隊のことを少しでも後世に伝えることが、末っ子の私の役目と思う。親きょうだいを泣かせる戦争は二度とあってはならない。
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