北朝鮮からの引き揚げが始まった。女性と子どもばかりの一行は徒歩で進む。村落には関門。腕時計など“貢ぎ物”を差し出し通してもらった〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/09/26 11:00

新義州高等女学校時代、日本各地を巡った修学旅行。山本幸子さんが、友人から譲り受けたアルバムの1枚=1940年、神奈川県鎌倉市
1945(昭和20)年8月の終戦直後、北緯38度で朝鮮半島が分断され、韓国側に次女を迎えに行った両親は北朝鮮側に戻れなくなった。当時20歳。三つ下の妹と中学1年の弟の3人で、半島北西部の水豊に取り残された。自分の国ではない場所で、どうなるのか分からない不安。日の丸の国旗は庭に塩をまいて焼いた。
翌春、鴨緑江水力発電の社宅から朝鮮人労働者用だった長屋に移され、引き揚げ準備をしながら待った。必要最小限しか持ち帰れないので、ラジオや柱時計などを金に換えた。親に買ってもらった文学全集を手放すのが一番惜しかった。
役立ったのが母の着物だった。ソ連の将校に売って食べ物に代えたり、解いて掛け物に縫い直したりした。近所の親切な朝鮮人女性がチマ・チョゴリもこしらえてくれた。帯の芯はリュックサックに。3人分作り、米や缶詰、着替えのほか、卒業証書や弟の在学証明書を詰めた。
引き揚げ決定の通知が届いたのは8月30日。待ち望んでいたのに、いざとなると不安や寂しさなど複雑な気持ちが募った。幼い頃から暮らした朝鮮各地の思い出もよみがえった。高等女学校時代の修学旅行は内地で、2週間かけて熊本や京都、東京などを巡った。当時の日本は外地に比べて粗末な校舎が多く、がっかりした。各地で撮影したジャンパースカート姿の集合写真をたまに見返す。
出発の朝は梅干し入りのおにぎりをたくさん握った。会社が用意したバスで平安北道と平安南道の境まで南下し、そこからは徒歩。幼児から足の弱い老婦人まで女性や子ども中心の一行だった。団長は朝鮮語が堪能な元警察官で頼りになった。
山中で野宿しながら、みんなで助け合って進んだ。道中、大雨に降られ、膝までつかる川を渡った。各村落の入り口には関門があり、団長が名簿を出すと人数を調べられ、許可されると通過できるという繰り返し。そのたびに、それぞれ持っていた腕時計などの“貢ぎ物”を差し出し、卑屈で嫌な気分になった。旧満州から脱走した日本兵3人に同行を懇願されたことも。農村の田舎道が自然と逃避行ルートになっていて、避難民目当ての物売りもいた。
約15日かけて開城近くへ。「今夜、38度線を越えます」との説明があり、日暮れを待った。ソ連兵が出てこないよう祈りながら小高い山を登った。途中、貯金通帳や保険証書、写真などが散乱していた。捕らえられ没収されたのか、捨てられたのか。一段と緊張が高まった。ようやく頂上にたどり着くと、木々の間から眼下に明かりが見えた。うれしかった。暗い山道を下った先には米軍のテントがずらりと並んでいた。
程なく南部の釜山へ。港には大勢の日本人。満州の団体が多く、服装から長い放浪生活がうかがえた。ソ連兵から身を守るためか、丸刈りにした男装の女性たちもいた。
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