予科練後、練習機「白菊」の通信機修理が任務に。忘れられないのは、隊を抜け出し農家で食べたイモの味。だが教官に見つかった。「脱走兵、軍法会議だ」。何十回も棒でぶたれた〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/09/28 11:00

鈴鹿海軍航空隊時代の児玉宗孝さん
旧制大口中学校4年生の1943(昭和18)年12月、海軍甲種飛行予科練習生に志願した。15歳だった。父も海軍を満期除隊しており、入隊に迷いはなかった。近くに住む1学年上の先輩と2人で、曽木駅から列車に乗って鹿児島駅に向かった。多くの人が見送りに来て、千人針の布を持たせてくれた。
奈良県天理市の三重海軍航空隊奈良分遣隊で、第13期生として訓練を受けた。各地から若者が1万人集まっていた。モールス信号による通信や、敵機の偵察術をたたき込まれた。42年のミッドウエー海戦で空母4隻がやられたことをはじめ、わが国が劣勢だという情報は一切知らされなかった。
約1年の予科練生活を終え、44年冬、三重県の鈴鹿海軍航空隊に配属された。特攻兵として飛行訓練を受けるものと思っていたが、機体は戦闘に出ていて、全くできなかった。
翌年の4月頃から、B29による空襲が激しくなり、鈴鹿から南へ8キロほど離れた黒田村に疎開した。「特攻兵なのに逃げるのもおかしな話だ」と思った。疎開先で松根油づくりに汗を流した。飛行機の燃料にすると聞かされていた。
同じ班に1歳年上の石橋勇君という人がいた。鳥取出身で、がっちりした体形なのに手先が器用で、頭も良かった。電子機器の知識に明るく、ラジオの組み立てなども簡単にやってのけた。興味があったので、彼に手ほどきを受けながら製作を楽しんだ。
ある日、2人で分隊士に呼び出された。「お前たちは電気の知識に明るいと聞いた。これからは練習機『白菊』に搭載する通信機の修理や点検を任務とする」と告げられた。
宿舎としていた小学校の一部屋を与えられ、通信機の部品に囲まれる生活が始まった。隊内では治外法権的な場所で、夜の見回りが来ることもなかった。
校舎の裏には人がやっと通れる小さなトンネルが掘られており、そこを抜けると、数軒の農家があった。「ごちそうになってくる人がいるらしい」といううわさが流れていた。
食べ盛りで、配給だけでは足りない。見回りがないのをいいことに、2人で何度か抜け出した。「兵隊さん、いらっしゃい。たくさん食べなさい」。歓迎してくれた農家さんの顔とイモの味は忘れられない。
4、5回そんなことを繰り返したある日、宿舎に戻ると、消えているはずの電気がついている。「しまった、見つかった」。腹を決めて部屋に入ると、顔を真っ赤にした教官が待ち構えており、分隊長の所に連れて行かれた。
「お前たちは脱走兵だ、軍法会議にかける。覚悟しておけ」。そう告げられ、教官から何10回も棒で尻をたたかれた。2人ともその夜は眠れず、しばらく立ち上がれないほどだった。会議に掛けるというのは脅しだったようで、また平穏な日々が戻った。
そのまま出撃することなく2、3カ月後、終戦を迎えた。今思えば、敗戦間近だったのになぜ1万人も若者を集めたのか不思議だ。入隊が2カ月早ければ、特攻兵として命を落としていただろう。
上官や先輩から理不尽にたたかれるなど、人間とは思えない扱いを受けた兵隊時代のことは思い出したくないが、私たちは戦争に携わった最後の世代。元気なうちに語って、記録として残したかった。若い人たちには少しでも戦争の悲惨さを知ってほしい。
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