教室で直された兵隊さんへの手紙。「元気にお帰りを」が「立派な死に方を」に。国民を死へ誘導した教育。今思えば「洗脳」としか言いようがない〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/10/10 11:03
戦争中の学校教育を「死ぬための教育だった」と振り返る小野郁子さん
戦争中の学校教育を「死ぬための教育だった」と振り返る小野郁子さん
■小野 郁子さん(87)霧島市隼人町姫城

 18歳で俳句を始めた。今も週5回、同好の集まりでみなさんと一緒に作っている。「少年の日の夢何処(いずこ)敗戦忌」「死のみちを説きし学舎(まなびや)敗戦忌」。今年、戦後76年目の夏に詠んだ句だ。

 1933年姶良市重富生まれ。父の仕事の都合で県内各地を回り、43年4月、家族で牧園町の安楽に引っ越した。中津川国民学校に転校。4年生だった。

 44年からは町内の全ての国民学校に軍隊が配置され、教室が宿舎になった。中津川には北海道部隊と運搬用の馬、「農兵隊」という小学校を卒業したくらいの少年の一団がやって来た。九州に敵が上陸する時に備えた戦力の位置づけだった、と戦後になって聞いた。

 当時、私たちの一日は次のように始まった。ご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列。まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼。その後、校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をした。似たような言葉を、日に3度は聞いた。

 授業らしい授業はほとんど無くなっていたが、教室でみんなと戦地の兵隊さんに手紙を書いた日のことをよく覚えている。

 「国のためにいっしょうけんめい戦って、元気でお帰りください」という文を「天皇陛下のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたをしてください。会いに行きます」と書き直すよう指導された。どんな死に方か分からなかったが、言われるがまま書き直した。今思えば「洗脳」としか言いようがない。

 国民を死へと誘導した教育の中心に、靖国神社があったのは事実だ。平和の実現のために選ばれたはずの政治家が靖国神社に参拝する姿を見ると、「もっと歴史を知ってほしい」と憤りを感じる。

 授業の代わりに割り当てられていたのが、食料増産のための開墾や、戦死者や出征の留守宅の奉仕作業だった。真夏のアワ畑の雑草取りのきつさは言葉にできない。

 農作業中に敵のグラマンに襲われたことが記憶するだけで3回ある。44年の夏が最初だった。犬飼滝の上にある和気神社右手の学校実習地で、サツマイモ畑の草取りをしていた。午前10時ごろ、見張り役の児童が「敵機襲来」と叫んだ。顔を上げると、犬飼滝の東の空にグラマン1機が見えた。

 機銃掃射が繰り返され、私は畑の脇の小さな杉の根元に頭を突っ込んで、ただただ震えていた。近くの旧国道を通り掛かった女性が即死し、はらわたが飛び散った。その道は、後に高校の通学路に。血の跡が残るシラス土手の脇を通るたび胸が痛くなった。

 軍歌を歌わなくてよくなり、自由に好きな絵が描けるようになった時、改めて戦争が終わったと実感した。

 銃後の生活は相当過酷なものだったが、みんなよく必死で生き抜いたものだと思う。