ハルビンの暮らしは終戦で一変。ソ連兵が押し入り家財道具を、姉の友人女性を奪っていった。当時18の姉とは引き揚げで離ればなれに。再会できたのは10年後だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/01/30 11:08
中国から奄美大島に一時帰国した姉(右)らと記念写真に収まる川畑照子さん(後列右)
中国から奄美大島に一時帰国した姉(右)らと記念写真に収まる川畑照子さん(後列右)
■川畑(旧姓山下)照子さん(83)鹿児島市紫原2丁目

 小学校に入る前の1944(昭和19)年、奄美大島から母や兄、妹と旧満州(現中国東北部)のハルビンへ渡った。両親は奄美市笠利町佐仁出身。先に父が開拓団の一員で移り住み、10歳上の姉も後に続いて銀行でタイピストをしていた。一家6人暮らしとなり、近所の現地の子と仲良く遊んだ。学校では魚釣りやスケート大会の応援が楽しかった。戦時中に怖い思いをした記憶はない。

 終戦で暮らしは一変した。数人のソ連兵がドタドタと押し入ってきて家中を荒らし、家財道具の一切を奪っていった。わが家に身を寄せていた姉の友人女性が連れて行かれたことも。怖かった。

 父は公安関係の仕事をしていたらしい。昼間は屋根裏に隠れて生活していたが、しばらくして家を出た。密告され、捕まらないよう逃げるためだった。一文無しとなり「今日は何を食べようか」といった生活。鼻水やまつげが凍るほどの寒さの中、まんじゅうを売り歩いたこともあった。

 終戦から年が明けた46年、18歳の姉だけを残して引き揚げることになった。姉の恋人で夫となった中国人男性が費用を工面してくれたと後で知った。道中、体調を崩した母は線路の枕木を乗り越えるのもきつくなった。「置いて帰れ」と言ったが、兄が中心となってみんなで母の手を引き、生きて帰ることができた。

 長崎県の佐世保で1カ月ほど船内に留め置かれた。やっと下船を許されて港に降り立つと、手の指くらいの小さな芋が配られた。どんなにおいしかったか。奄美大島に戻ってからも、兄が働いて家計を支えてくれた。

 53年に奄美群島が日本に復帰して間もなく、父が生きていることが分かった。長崎で別の家庭を築き、子もいた。しばらくして1人で会いに行った。幼い頃にとてもかわいがられたと聞いていたが、再会しても不思議と何の感情も湧かなかった。「叔父にそっくり」と思ったくらい。後で会った妹は「どうして探してくれなかったのか」と責めたそうだ。許せなかったのだろう。

 姉と再会できたのは57年。幼子を連れて奄美に一時帰国した。母や祖母らと共に写真館で撮影した記念写真が手元に残る。永住帰国したのは72年の日中国交正常化の後。東京で手広く事業をしていた親族のおかげで、姉の夫と4人の子も日本へ。姉は優しい伴侶に恵まれてよかったが、たった1人で遠く離れた地に残り、どんなに心細かっただろうか。めいの話では「日本人の子」といじめられたこともあったそうだ。

 両親もきょうだいも亡くなった今、戦争や引き揚げについてもっと語り合っておけばよかったと悔いている。戦争で大切な家族が引き裂かれた。同じ過ちが繰り返されないよう心から願っている。

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