50年前の沖縄返還。バスで向かった国際通りは、祝賀ムードには程遠かった。「アメリカは要らない。帰れ」。日の丸の代わりに目にしたのはデモ行進だった

 2022/05/15 07:13
「海上集会の熱気はすごかった」と振り返る栁田健一さん=与論町立長
「海上集会の熱気はすごかった」と振り返る栁田健一さん=与論町立長
 日本復帰を目指して頑張ろう-。鉢巻きをした本土、沖縄双方の参加者が声を張り上げる。船から身を乗り出して握手したり、大きく手を振ったりする姿が今も目に焼き付いている。

 沖縄の米軍統治下時代に「国境」だった北緯27度線付近の与論島南方沖で、沖縄の早期返還を訴えた「海上集会」。1952年のサンフランシスコ講和条約発効で沖縄が日本から切り離された4月28日に合わせ、63~69年に開かれた。

 本土側の20人を木造のはしけ船(10トン)に乗せ、与論から集会の海域へ向かった。「すさまじい盛り上がりだった。周辺には多くの船が集まり、事故を起こして関係者がけがでもしたら大変だと神経を使った」と振り返る。

■デモ行進

 沖縄の復帰当日の72年5月15日。鹿児島の船会社が、これまでの与論止まりではなく沖縄本島の運天港まで運航する特別便を出した。海上集会の熱気を思い出して感慨深く、「みんなが頑張ったおかげ。一緒に祝いたい」と乗り込んだ。

 港からはバス2台に分乗し、那覇市の国際通りへ。外を眺めながら「何かおかしい」と次第に感じ始めたという。どの家や集落も日の丸の旗を掲げていない。「どうしたのだろう。祝賀ムードには程遠い」と不思議でたまらなかった。

 国際通りに着き、はっきりと理由が分かった。大勢の人が「アメリカは要らない。帰れ」とシュプレヒコールを上げ、横断幕を手にデモ行進していた。

 「沖縄の住民にとって、米軍基地がある限り本当の復帰ではない」。現地が望んだ形の返還ではなかったと痛感した。本土側との受け止め方の違いをまざまざと見せつけられた。「喜びを分かち合うどころではない」と、すごすごと引き返すしかなかった。

■複雑な思い

 与論にとって沖縄は、物理的な距離はもちろん、心情的にも鹿児島より近い。医療や買い物、観光と頼るところは大きい。「昔から交流が深く、隣同士で仲良くしなければ」と語る。

 その隣県には復帰50年の現在も国内の米軍専用施設の約7割が集中する。中国による尖閣諸島周辺への領海侵入や、台湾有事の危険性と隣り合わせの状況に思いは複雑だ。

 沖縄の人々が基地は必要ないと訴え続け、苦しんでいるのは十分に理解できる。ただ一方で「日本を取り巻く安全保障環境を考えた場合、米軍基地をなくすわけにはいかないのではないか。自衛隊だけではとても守り切れない」。重い口調で話した。

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 沖縄が日本に復帰して5月15日で50年。沖縄・鹿児島ゆかりの人に、両県とのこれまでの関わりを語ってもらい、将来への思いをつなぐ。