ウクライナで強制労働。鹿児島育ちには寒さがこたえた。身体検査で尻の肉をつかむソ連の女性軍医。体が細かったため仲間より先に帰国が許された〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/05/16 11:00
税関職員時代の写真を持つ渕上留男さん=さつま町轟町
税関職員時代の写真を持つ渕上留男さん=さつま町轟町
■渕上留男さん(96)さつま町轟町

 1945年8月の第2次世界大戦終結に伴い北朝鮮で武装解除され、ソ連(現ロシア)軍に連行された。翌年8月から約1年間、ウクライナ東部のドネツク州スラビャンスクの収容所で強制労働をさせられた。

 ドネツク州では現在、ロシアの侵攻によって大きな犠牲と被害が発生している。その報道に触れるたびに、あの場所で再び多くの人々が苦しんでいることに憤りとむなしさを感じている。戦争がなくならない世界は、当時と何も変わっていないように思う。

 薩摩川内市東郷で生まれた。長浜学園私立川内商業学校(現川内商工高校)を卒業して親元を離れ、当時日本が統治していた北朝鮮に渡った。43年、北西部の新義州で税関職員に就いた。17歳だった。社会全体に「これからは国外に出て行く時代」という雰囲気があり、同級生も多くが就職を機に日本を離れた。

 44年9月に徴兵され、平壌に駐屯していた陸軍の歩兵第41連隊補充隊に配属された。「男が国のために戦うのは当然」と考えていたので、何の疑問も抱かなかった。

 銃の撃ち方や銃剣道の訓練を受けているうちに終戦を迎えた。日本が負けたという悔しさもあったが、「戦場に行かずに済んだ」というほっとした気持ちもあった。

 その後、侵攻してきたソ連によって武装解除された。しばらくして、行く先を知らされないまま、船や貨物列車に乗せられた。北朝鮮の興南から約1カ月かけて到着したのは、日本から約8000キロ離れたウクライナのスラビャンスクだった。途中寄ったバイカル湖で久しぶりに体を洗ったのを覚えている。

 収容所では20~30人ほどのグループに分けられ、鉄道の枕木の運搬やヒマワリ畑の草取り、木の伐採などをさせられた。仕事が終わっても迎えのトラックが来ない日もあり、夕食抜きでそのまま野宿した。

 冬季は気温が氷点下20~30度を下回り、膝上まで積もった雪の中で作業することもあった。鹿児島育ちには特に寒さがこたえた。「無事に古里に帰れる日が来るのだろうか」と毎日不安だった。

 施設には、自分たちが来る前にドイツ兵が収容されていたと聞いた。今考えると、ヒトラー率いるドイツ軍がスラビャンスクを一時占領していたので、ソ連との戦いで捕虜になった兵士たちだったのだろう。

 収容されて1年後、他の仲間より体が細かったため、先に帰国が許された。身体検査で、女性軍医が日本人たちを全裸にさせて一人一人の尻の肉をつかんで判断していたのが印象に残っている。

 陸路でロシア東部のナホトカまで運ばれ、47年9月に船で北海道の函館に到着。列車などで2日がかりで鹿児島にたどり着いた。実家は空襲で焼失していたが、両親の姿を見た時はほっとした。相当汚い格好をしていたのだろう、すぐに風呂に入って着替えるよう促された。

 収容所には鹿児島出身者も多くいたが、今はほとんどの人が鬼籍に入った。スラビャンスクの町並みの記憶はあまりないが、広大な大地が広がっていたのを覚えている。

 過酷な強制労働をさせられたソ連への憤りは、今も消えない。ロシアは多くの人につらい思いをさせる戦争をすぐにやめるべきだ。一刻も早くウクライナの人たちに平和な日常が戻ってくることを願っている。

(2022年5月16日付紙面掲載)

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