ニューギニアの密林。飢えて歩けなくなった父は家族写真を取り出し、一人一人の名を叫んだ。終戦目前、悲劇は母にも。墜落機に巻き込まれ、両脚が吹き飛んだ。目を見開いたままの遺体は放置された〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/05/26 11:30
両親の死を思い出すと今でも涙が出ると語る前平和真さん=霧島市隼人町小田
両親の死を思い出すと今でも涙が出ると語る前平和真さん=霧島市隼人町小田
■前平和真さん(90)鹿児島県霧島市隼人町小田

 父・前平助左衛門は1944年9月14日、ニューギニアで戦死した。39歳だった。所属部隊や階級、戦死した場所も分からない。

 家族のため休みなく農作業をしていた父に召集令状が来たのは、亡くなる3年ほど前だ。三つ年下で尋常小3年だった妹は「戦争に行くな」と父にしがみついた。

 「ゴムボールを買ってあげる」「貝採りにつれて行ってあげる」と父が必死になだめた。家族は皆泣いていた。父は「別れがつらくなる」と子どもが学校に行っている間に出ていった。

 戦地からはがきがよく届いた。弟が生まれたと知らせた時は「早く抱きしめたい。見たい」と大喜びだった。

 遺骨や遺品は戻ってこなかった。ただ、溝辺出身の帰還者が父と同じ隊におり、たびたび戦地の話を聞きに行った。母には絶対に内緒にするとの約束で、父の死の間際の様子を教えてくれた。

 その人の話によると、隊長の突撃命令で敵陣地を攻めたが、機関銃や火炎放射器に阻まれジャングルの中を撤退。ある時、父は「銃剣で人を刺し殺すようなことをせずに済んでよかった」とつぶやいた。

 食料はなく、動くものは何でも捕まえた。飢えと疲労で戦友は次々に倒れ、父も次第に衰弱した。「頑張れ頑張れ」と父に声をかけ、肩を貸して歩いたが、「もう限界だ」と座り込んでしまった。

 「家族に遺言を頼む」と父は泣きながら話し始めたが、途切れ途切れで聞き取れない。後ろ髪を引かれる思いで置き去りにした。遠ざかる中、父が家族写真を取り出し、一人一人の名前を叫ぶのが見えたという。

 父は本当に優しい人だった。戦って死んだのなら諦めもつくが、飢えて死ぬとはなんとむごいことか。白米こそ食べられなかったが、農家だった自分の家にいれば飢えることはなかったのに。

 悲劇はこれだけで終わらなかった。45年5月30日、南から飛んできた日本軍機が自宅近くに墜落。農作業中の母ヒデ(享年38歳)と妹が巻き込まれた。

 現場に駆け付けると、妹は無事だったが、母は両脚が吹き飛び亡くなっていた。母は脚がないのに体を起こし、うずくまる妹の方を見つめるように目を開いたままだった。軍が乗員の遺体を回収しに来たが、母はそのまま放置された。

 幼い弟は、夜になると「お母さんはどこにいるの。早く帰ってきて」と泣いた。それがつらかった。私も悲しみでぼうぜんとし、勉強にも農作業にも身が入らなかった。

 現在、子や孫、ひ孫合わせて16人いる。広島東洋カープの元投手・北別府学は娘婿だ。最近になって子や孫にも戦争の話をするようになった。娘から「もっと多くの人に体験を伝えるべきだ」と背中を押されて取材を受けることにした。

 戦後76年になるが、父と母の死について考えるだけで、今でも心がかき乱される。しかし、戦争中の話ができる人が少なくなった今だからこそ、語り残しておきたい。

 ロシアのウクライナ侵攻の報道を見ると、戦争で最も被害を受けるのは民間人だと痛感する。祈る以外に止めるすべがないのが悔しい。

(2022年5月26日付紙面掲載)