島津義久、秀吉に謀反計画? 「朝鮮出兵に不満、明と連携画策」 複数の専門家、海外の史料に注目

 2022/06/26 20:45
島津義久(右)が豊臣秀吉に降伏する様子をイメージした像。義久は豊臣政権とは距離を置いていたとされる=薩摩川内市の泰平寺公園
島津義久(右)が豊臣秀吉に降伏する様子をイメージした像。義久は豊臣政権とは距離を置いていたとされる=薩摩川内市の泰平寺公園
 430年前の1592年、豊臣秀吉が明の征服を目指した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が始まった。島津家からは義弘らが渡海。一方、国元に残る兄の義久が明とひそかに連携し、秀吉を倒そうと企てたとの説がある。スパイ潜入の手引きや、徳川家康の関与を示唆する専門家もいる。真相やいかに。

 「島津義久は明との連携を考えていた」と強調するのは、尚古集成館(鹿児島市)の松尾千歳館長(62)。昨年、「薩明合力計画について」と題した論文で島津家の“裏”の動きに迫った。

 鍵を握るのが、義久が重用したお抱え医師で明出身の許儀後(きょぎご)だ。明の史料「海防迂説(かいぼううせつ)」によると、許は文禄・慶長の役の際、明に「秀吉は朝鮮に兵を送り国を空にしている。薩摩に残る兵を集めれば4万人ほど。福建から船に明の精兵2、3万を乗せて島津と一緒に攻めれば、秀吉の首を取れる」と提案している。

 これ以前にも、許は弟子の郭国安(かくこくあん)と協力し、出兵直前に「秀吉が近く朝鮮や明を攻める」と明の福建軍門に通報した。情報を得た明は、島津領に工作船を送り込む。スパイが内之浦(肝付町)に入り、秀吉のいた名護屋城(佐賀県)に潜入した。松尾さんは「立地や秀吉の動静を探ったと史料にある。島津の協力なしでは不可能だ」と語る。

■家康も関与か

 薩摩と明の連携は以前から知られ、鹿児島県史にも記述があるが、信ぴょう性に乏しいとの見方だった。一石を投じたのが、鹿児島国際大学元教授の増田勝機さん(77)=東洋史=だ。1990年代から自著や論文で計画をひもといてきた。

 連携の形跡は日本側からは確認できないが、明や朝鮮に複数の記録が残る。「書かれた日付や人物名、地名が具体的で信ぴょう性は高い」と力説する。

 松尾さんは、許が明にもたらした情報を記す「全浙兵制考(ぜんせつへいせいこう)」の一節に注目する。「薩摩国君臣が東海道と通じて謀反を起こそうと密議していた」との記述だ。松尾さんは「東海道とは、この地を長く本拠としていた徳川家康だろう」と推察する。ちなみに許は、出兵情報を流したことが秀吉に露見してしまう。釜ゆでで処刑される寸前、秀吉を説得して救ったのが家康だった。

 松尾さんは「1人の明国人を家康が助命する理由はない。裏で手を組んでいたなら、関ケ原で敵対したものの島津家へ甘い対応をしたことや、家康の『家』の字を初代藩主の家久に与えた優遇ぶりまで理解できる」と読み解く。

■交易に制限

 ただ、謀反計画は実現しなかった。和平が進んだこと、明の主要人物の失脚、皇帝まで話が通らなかったといった要因が重なったとされる。

 では、なぜ島津家は明との連携を画策したのか。松尾さんは「自由だった明との交易が、秀吉の天下統一によって制限が生じる状況を望んでいなかった」とし、「朝鮮出兵に不満を持っていた義久の指示で、許儀後が動いたと考えるのが自然だ」とみる。

 お家存続のため戦地で奮闘する長弟の義弘に対し、義久は豊臣政権と距離を置いていた。次弟の歳久が切腹させられ、秀吉を恨んでいたとも伝わる。

 朝鮮出兵に詳しい鹿児島国際大学の太田秀春教授(49)は「実現性がどれほどだったかは分からないが、明と組もうとする発想自体が、交易で広く世界とつながる島津にしかできない」と解説。当時の島津家に謀反を起こす余力があったのか、他の大名たちと一緒に朝鮮にいた義弘らの身の安全はどうなるのかといった疑問は残る。増田さんは「さらに海外の史料を読み解けば、今後も新しい事実が明らかになる可能性がある」と期待を込めた。