「海軍の秘密基地」と呼ばれた山頂の木造兵舎。終戦後、基地に残された銃弾を持ち帰った。遊んでいたら「パチン」と大きな音。破片の跡は今も残っている〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/07/02 11:30
上床山の方角を指し、戦時下の様子を振り返る折橋義行さん=阿久根市山下
上床山の方角を指し、戦時下の様子を振り返る折橋義行さん=阿久根市山下
■折橋義行さん(90)鹿児島県阿久根市山下

 戦時中、阿久根市山下の上床山(標高320メートル)には日本軍の軍事拠点が設けられていた。大人たちは「海軍の秘密基地」と呼んでいた。

 当時、私は小学校高学年。上床山は自宅近くにあり、その秘密基地に数回、足を踏み入れた。山頂には何本もの電線が引き込まれ、木造兵舎が建っていた。直径約2メートルの穴には大きな機関銃も配備されていた。兵隊は10人以上いたと思う。

 山頂からは出水市や薩摩川内市方面も見渡せる。出水には海軍の航空基地もあり、北薩を飛ぶ米軍機の監視が主な任務だったのではないだろうか。

 基地では優しく接してくれる人もいた。帰りにつくだ煮を持たせてもらったこともある。ある時、米軍機を間近で見たという隊員が自慢げに話しかけてきた。「米国のパイロットは女性だったよ。髪が長いんだ」

 短髪が当たり前の日本軍。今思えば、髪の長さが違う男性パイロットを「女性」と勘違いしたのだろう。日本兵の多くは米国人を直接見たことがなく、未知の国と戦っている感覚だったのかもしれない。

 戦況が厳しくなると、阿久根にも米軍機が飛び交うようになった。日本側の砲撃が米軍機に届いていない様子がはっきりと分かった。それでも「日本は連戦連勝。米国にも負けない」と信じていた。学校でもそう教え込まれていたからだ。

 1945年8月12日。自宅から約5キロ離れた阿久根市街地が空襲に見舞われた。街に向かうと全てが焼き尽くされていた。家も病院も商店も。同じような年齢の子どもががれきの前で、ぼう然と立ち尽くしている姿が忘れられない。

 3日後、終戦を迎えた。「戦争が終わった」ではなく、「日本が負けた」という感覚だった。頭に浮かんだのは基地の兵隊たち。山頂に登ると、すでに誰もいなかった。

 きれいに畳んだ毛布が残され、銃がまとめて立て掛けられていた。食糧難の時代。無人の基地からみそをたるごと持ち去った大人もいたという。

 好奇心旺盛だった私は銃から銃弾を取り出し、自宅で解体を試みた。直後「パチン」という大きな音が響いた。弾が爆発したのだ。煙が充満し、体は血まみれになった。幸いにも致命傷は負わなかったが、今も足に破片が刺さった跡が残っている。

 その後、同じように基地の銃をいじっていた子どもが亡くなったと聞いた。即死だったらしい。「私は生かされた」と感じた。

 あれから間もなく77年。いつになっても世界から戦争はなくならない。ウクライナでは子どもを含めて多くの市民が犠牲となっている。地球全体が家族となるような日が早く来てほしい。

(2022年6月30日付紙面掲載)