戦後間もなく満州から引き揚げてきた叔父親子 再会を喜びつつ、一家13人で日に3合もない配給の米…「いっぺんに炊いたら、あしたから食べるご飯がない」 食糧難にあえぐ家族の姿、亡き姉つづった手記見つかる

 2022/08/11 15:00
戦後、定子さんがつづった手記
戦後、定子さんがつづった手記
 鹿児島県薩摩川内市水引町の別府俊明さん(76)の姉で、2020年に91歳で亡くなった定子さんが戦後間もなく記したと思われる手記が見つかった。満州から戻った叔父との再会を喜びつつも、食糧難に悩む家族の姿が描かれている。

 俊明さんの実家は、サツマイモや小麦を育てる農家だった。男女6人きょうだいで「すごい貧乏だった」と振り返る。長女だった定子さんは水引中学校を卒業後、川内高等女学校に進学。14歳差の俊明さんが物心つく頃には嫁いでいた。

 手記は定子さんの死後、遺品整理の際に発見。A5サイズ用紙3枚の裏表で色は変わり、所々破れていた。1947(昭和22)年ごろの記録とみられる。

 書き出しは「もうすぐ一年になると思ふと何となくあの頃の事が思い出されてくる」。8月16日夕方、叔父・義足さん親子が6人で満州国鞍山から引き揚げ、定子さん宅を訪ねてきた。

 再会を喜びながら、食料確保に困る母の「今夜いっぺんにご飯を炊いたら、あしたから食べるご飯がないよ」との言葉も記される。一日に7人で3合もない配給の米を13人で食べたら月末まで持たない。米はおかゆにして、ほかをごちそうにした。しかし、日に日に切羽詰まり、早掘り芋を食べるなどしてしのいだ、とある。

 米代わりに麦を石臼でひいて食べることもあり、定子さんはその担当だった。9月に入り学校が始まると「少しは炊事場から離れられる」と喜ぶ様子も記した。さらに、義足さん一家は定子さんの父親の提案で湯田口(現在の薩摩川内市湯田町)で製塩業を始め、戦後の足がかりを築く姿もあった。

 「姉は戦争の話はしなかったが、食料の話は聞いた。それだけ大変だったのだろう」と俊明さん。「生きていたら手記について聞きたかったが、残念。昔のことを記し残すのは大事だと思った」と話した。