終戦間際の台湾、「戦車特攻隊」に配属。爆弾15キロを抱え、薄い底板目がけ飛び込む訓練、爆薬付きの棒を突き当てる訓練、そして夜襲。圧倒的な米軍の戦力に、「たこつぼ」と呼ぶ穴での待ち伏せが関の山だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/08/12 11:58
軍服に身を包んだ戦車特攻隊員当時の川村正道さん(右)
軍服に身を包んだ戦車特攻隊員当時の川村正道さん(右)
■川村 正道さん(95)鹿児島県出水市西出水町

 日本統治時代の台湾中部で、1927(昭和2)年に5人きょうだいの4番目として生まれた。当時、父は台湾人を教える公学校の校長だった。

 台中第二中学校へは汽車で通学した。シートをかぶせた無蓋(むがい)貨車に大砲や戦車が積まれていたり、南方へ向かう兵隊が客車のよろい戸を開けて外を眺めたりする様子を駅で見かけ、「何か起こる」との予感はあった。2年生だった41(昭和16)年12月7日、中学の軍事教練を評価する軍の査閲官が「明日にでも戦争が始まる」と言ったことは今でも忘れられない。翌8日に臨時ニュースで開戦を知って驚いた。

 進学した台南工業専門学校で、1年生が終わる45(昭和20)年3月に急きょ学生全員が軍役に編入された。米軍の上陸に備えて、学生服姿で三八式歩兵銃を手に西海岸のトーチカのような陣地で待機していた。はっきりは覚えていないが、1週間ほどだっただろうか。沖縄への上陸を受け、いったん解散となった。

 この頃は台湾でも空爆が激しくなっていて、疎開先でクラスター爆弾の直撃を受けた。「シュルシュル」と音が聞こえ、とっさにサツマイモ畑の畝の間に身を伏せて事なきを得た。足元から3、4メートル先に落ちており、戦時中で最も身の危険を感じたのはこの時だった。

 4月中に台南工専から120人が選抜され、「戦車特攻隊」に配属された。志願したわけではなく、命じられるまま。怖さは感じず「なるようになる」との思いしかなかった。満州から転戦した関東軍の精鋭部隊が駐屯していた南部・屏東(へいとう)近くに移動し、今度は軍服や軍靴を支給された。学生寮より食事が良かったことは印象に残っている。

 前面の装甲などより薄い戦車の底板を目がけ、15キロほどの爆弾を抱えたまま飛び込むのが戦車特攻だが、その訓練を始終していたわけではなかった。円すい型の爆薬を先に取り付けた2メートルぐらいの棒を突き当てる訓練も1、2回あった程度だった。夜間に見つからないよう敵陣に近づき、休んでいるところを攻める夜襲訓練が中心だった。武器や兵力が限られる中で、土壇場のあがきだったのかもしれない。

 戦車の後ろに自動小銃を持った随伴歩兵を従えている、50メートル先まで火炎放射器で焼き払いながら進む-。サイパンなどでの米軍の戦い方に関する情報も入ってきていた。たこつぼと呼ばれる穴に潜んで待ち伏せするぐらいしか手がなく、「どうしたらやり抜けるのか」と戦術に頭を悩ませていた。

 戦火を交えることなく終戦を迎え、8月15日の詔勅はラジオで聞いた。月末には除隊となり、民間人の日本への引き揚げが始まる前の12月までは学校に通った。

 特攻を仕かけたとしても戦車にたどり着く前にやられていただろう。われわれは鉄砲玉扱いだったと思う。18歳で命を散らしていたかもしれなかったが、生き延びられたのはたまたま米軍の上陸がなかっただけのことだ。