B29による初の本土爆撃「八幡空襲」。それより前、薄汚れたイギリス兵捕虜を街で見た。「勇気ある日本人は腹を切る。野蛮なやつらは捕虜になる」と先生は言った〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/08/15 11:10
八幡空襲翌日の1944年6月17日に撮ったとされる写真。奥に写るのは八幡製鉄所=北九州市平和のまちミュージアム提供、米国立公文書館所蔵
八幡空襲翌日の1944年6月17日に撮ったとされる写真。奥に写るのは八幡製鉄所=北九州市平和のまちミュージアム提供、米国立公文書館所蔵
■中村明蔵さん(87)鹿児島市坂之上6丁目

 国民学校4年生の時、1944(昭和19)年6月のことだった。当時は福岡県戸畑市(現・北九州市)で母と姉2人、弟と暮らしていた。

 夜中に空襲が始まり、慌てて自宅床下の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。激しい音が聞こえ、恐怖で身がすくんだ。少し音が遠ざかった気がして、隙間から外を見ると、夜空に線を引いたような光が何本も見えた。落下する爆弾と、応戦する高射砲だったのだろう。米軍のB29による初めての本土爆撃「八幡空襲」だったとは、この時は知る由もなかった。

 一夜明け、近くの病院の看護婦だった叔母が亡くなったと聞いた。防空壕の出入り口が爆風でふさがれ、中にいた全員が窒息したそうだ。遺体安置所に向かうと、外傷はなかったが、元々ふくよかだった叔母の顔はより膨れて、仏様のようだった。人は死んだらこうなるのかと怖くなった。今でも葬式に行きたくないのは、この出来事が記憶に刻まれているからだ。

 後日、学校で空襲のことを作文で書いた。「大好きな叔母の死が悲しい」「恐ろしかった」と書いたら、先生から「立派な兵隊になるのに怖いとは何事か。日本男児らしくない」とひどく叱られた。事実なのになぜ駄目なのかと思った。

 他にもこんなことがあった。2年生の夏だっただろうか、自宅近くにあった路面電車の停留所で外国人の集団を見つけた。薄汚れたシャツで、飯ごうをいす代わりにして、銃剣を持った日本兵に囲まれていた。聞けばシンガポールにいたイギリス兵の捕虜で、八幡製鉄所で働かされるのだという。戦争についてよく知らず、この時に初めて日本軍による「シンガポール陥落」を知った。

 以来、友達と竹馬をしながら、英兵見物が日課となり、あちらも珍しそうにこちらを見ていた。ところが、先生に知られてしまい、「日本人は勇気があるから腹を切るが、やつらは野蛮だから捕虜になる。見に行くな」と怒られた。

 ただ、父が外国航路の船員で世界中を旅していたから、外国人へのイメージは先生とは違っていた。父はワニのはく製をお土産に持ち帰り、「NAKAMURA」と書いた衣装箱を持っていた。アメリカやブラジルやアルゼンチンの人たちは、一緒にいて楽しいと教えてくれた。先生が言う「野蛮人」とは程遠かった。

 八幡空襲の後、しばらくして私たちの家は収用されて取り壊しが決まった。工業地帯が近い戸畑は危ないし、軍に徴用された父の船が、鹿児島市から発着すると聞き、知り合いを頼って疎開することになった。

 鹿児島市では終戦までの間に、武や松原、天保山と住まいを転々とした。空襲で学校が焼け、道端では多くの遺体を目にした。あの独特の臭いが鼻の奥に残っているような気がして、今でも火葬場に行くのは苦手だ。父はフィリピン沖で、出征していた1回り上の兄はセブ島で、それぞれ帰らぬ人となった。

 戦後の学校では「鬼畜」だったはずの米英が民主主義国家で先進国だと教わった。何という変わりっぷりかと子どもながら思った。

 半世紀にわたり、鹿児島県内の高校や短大、大学で日本史を教えてきた。弱い者が感じた恐怖を許さなかったり、外国人を敵視したりするような、理不尽な教育は決してしないとの誓いが根底にあった。

(2022年8月15日付紙面掲載)