出征祝いの席で父がいなくなった。4日前に生まれた私を抱きしめようと抜け出したのだ。「この子が草履を履くようになったら…」。そう言い残した父だが帰ってこなかった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/09/22 11:01
父・迫田進さんの写真(右)と母ユキノさんの手作りの草履
父・迫田進さんの写真(右)と母ユキノさんの手作りの草履
■塩屋敬子さん(79)鹿児島県南さつま市笠沙町赤生木

 父・迫田進は笠沙町片浦で鮮魚の運搬をしていた。私が生まれた1943(昭和18)年6月11日の朝、召集令状が届き、4日後の15日には出征した。当時26歳。万歳三唱で送り出す祝いの席で、父が不在になり騒ぎになった。母・ユキノによると、初めて授かった私を抱くため席を抜け出し、「この子が草履を履くようになったら帰ってくるよ」と言い残して従軍したという。

 戦争のことはまったく記憶にないが、母は食うや食わずの生活を強いられ、45年8月15日に終戦を迎えた後、「8月5日フィリピンにて戦死」と書かれた公報を受け取った。しばらくして遺骨が帰ってきた。中には髪の毛みたいなもの、松ゴケのようなものが入っていた、と母に聞いた。運転免許証を持っていた父は、陸軍で戦車の運転でもさせられていたのだろうか。今となってはどうして戦死したのか知る由もない。

 戦後、母は畑や田んぼの手伝いなどの日雇いをして私を育ててくれた。まだ水道も電気もなかった。水はわき水をためてある場所へくみに行った。地下足袋を買うお金もなく、手先が器用な母はわら草履を手作りした。冬の寒い朝、夜なべして作ったわら草履を履いて、「学校から帰ったらハンズ(水がめ)に水をくんで、母ちゃんが帰ってくる前にはいろりに火をたいて、湯も沸かしておくんだよ」と言いつけて出かけていった。

 小学1年だった私は言いつけ通りにして、母の帰りを待っていた。ある日、遅く帰宅した母がマッチの明かりで「敬子、敬子」と呼びかけた。待ちくたびれた私は眠ってしまっていたようだ。いろりの火は消えて燃えかすさえ残っておらず、カンテラ(ランプ)の石油も切れて消えていた。

 「火をたかんかったとね。湯も沸かさんかったとね」と怒る母に、私は「学校から帰った時に寒いから家に居てほしい」と懇願した。すると、母は「誰が学校に出すっとか。母ちゃんが父ちゃんの代わりに働らっで、おまえは母ちゃんの代わりをしなさい」と言った。我慢していた悲しみがこみ上げ、2人で抱き合い泣いた。貧しかった母子家庭の生活で特に鮮明に残っている出来事だ。

 結婚、出産した私が初めて待望の子どもを抱いた時、今までにない感情に襲われた。こんな小さないたいけな無心な子どもを残して、戦地へ駆り出された父の心情が痛いほど分かり、涙があふれて止まらなくなった。父親の愛情を知らずに育った私は、父を欲しいと思ったことも会いたいと思ったこともなかった。この時ばかりは父が恋しく会ってみたいと思った。

 10年前、母は93歳で亡くなった。見送る時、心の中で「やっと父さんに会えるね」と語りかけた。半年ほどして、夢の中で父から長い長い巻き文が届いた。最後に「敬子すまん」と書いてあった。母は父に会えたのだと思った。私が人生を終えた時には真っ先に父に会いに行きたい。この世に送り出してくれてありがとう、と。

 夏になると当時の記憶がよみがえり心が痛む。戦争は残された遺児の戦後も不幸にする。私のよう体験者が再び出ないよう平和を願ってやまない。

(2022年9月22日付紙面掲載)