「夕日を見に行く」と言い残し北朝鮮に拉致されたカップル…北は「水死」と「心臓病で死亡」と言う 「作り話だ」。家族は今も帰国を待つ

 2022/10/14 21:05
日置市吹上浜で拉致される直前に撮ったとみられる市川修一さん
日置市吹上浜で拉致される直前に撮ったとみられる市川修一さん
 北朝鮮に拉致された日本人5人の帰国から15日で20年となる。5人以外の被害者はいまだに祖国の土を踏めず、高齢となった多くの親らは鬼籍に入った。拉致解決の見通しが立たない中、鹿児島県内の被害者市川修一さん=失踪当時(23)、増元るみ子さん=同(24)=の家族は再会を信じ、早期帰国を訴えている。事件の経過を振り返る。

 市川さんは3人きょうだいの末っ子。岩川高校に入るとバイクの免許を取り、近くに住む同級生を後部座席に乗せて通学していた。鹿児島市内で働き始めた後の1978年夏、仕事を休んで家業の小売店のセールを手伝った。「本当に優しい子だった」と兄健一さん(77)。

 増元さんは鹿児島市で4人きょうだいの3人目として育った。幼少期は長い髪を母の信子さん=享年90歳=に結ってもらい、学生時代は洋楽が好きでよく聴いていた。姉の平野フミ子さん(72)=熊本県八代市=は「家族思いで、私たちが怖がっていた頑固者の父(正一さん=享年79歳)のことも大好きだった」と話す。

 市川さんと増元さんは同年春に知り合い、交際を始めた。この年の8月11日、増元さんは家族に「あす修一君と吹上浜に夕日を見に行く」と告げた。

 翌日の12日は土曜日だった。昼で仕事を終えた増元さんは市川さんの車に乗り、市内の祖母宅にお盆の花を届けた。その後、日置市に向かった。夜10時までに帰る予定だった。

 しかし2人は戻らず、13日、家族が警察に相談した。さらに1日待ち、捜索願を出して吹上浜周辺を捜し始めた。現場付近に市川さんの車が残され、車内には増元さんのバッグやカメラがあった。「失踪」の情報が広がり、友人らも現地に駆け付けた。

 捜索のさなか、健一さんは地元の人から「北朝鮮の仕業ではないだろうか」と言われた。当時、周辺の海域には国籍不明の船が出没していたという。健一さんは「本当かもしれないと思い、頭から離れなかった」と振り返る。だが、証拠はなかった。

 2人が失踪した時期は、福井や新潟で行方不明事案が相次いでいた。未遂事件も発生し、外国製とみられる手錠などが現場に残されていた。

 事件が解決しないまま10年たった88年、当時の国家公安委員長が市川さん、増元さんら3組の不明について「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と国会で答弁。鹿児島県警は91年に対策班を設置した。97年3月、被害者家族会が結成され、家族や支援者から救出の声が強まっていった。

■「5人生存、8人死亡」

 1997年3月25日、東京都内のホテルの一室。北朝鮮拉致被害者の家族8組が初めて顔を合わせ、救出に向けて話し合った。

 実名を明かして活動し、世論に解決を強く訴えたい。しかし北朝鮮を刺激して被害者に危険が及ぶかもしれない。悩んだ末、前者を選択。被害者家族会を結成した。

 翌26日に早速、警察庁と外務省へ真相究明と早期救出を陳情。同年5月、警察庁は日置市吹上浜で行方不明になった市川修一さん=失踪当時(23)、増元るみ子さん=同(24)=ら7件10人が「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」との見解を明らかにした。家族会は署名活動などに本腰を入れ、全国各地に支援者の会が設立された。

 2002年8月30日、増元さんの姉平野フミ子さん(72)=熊本県八代市=は、いつもと同じように朝のNHK連続テレビ小説を見ていた。突然、画面上に「小泉純一郎首相(当時)が訪朝する」との速報が流れ仰天した。

 「被害者が帰ってくると期待が高まった」。一方で訪朝が近づくにつれて、「金正日総書記(当時)が拉致を否定するのでは、という不安も大きくなった」と述懐する。

 小泉氏が初の日朝首脳会談で訪朝した9月17日。家族は外務省飯倉公館(東京)の大きな部屋に集められた。モニターには現地のテレビ中継が映っていた。

 「5人生存、8人死亡」。北朝鮮が伝えた情報は衝撃的だった。市川さんの兄健一さん(77)=鹿屋市輝北=や平野さんら「死亡」とされた被害者の家族が1組ずつ福田康夫官房長官(当時)に呼ばれた。「生存」だった蓮池薫さん(65)=新潟県柏崎市=の母親は「ごめんなさい」と他の家族に謝っていた。

 その後、北朝鮮は「死亡者」の詳細を示した。泳ぎが苦手な市川さんが「海水浴中に心臓まひで水死」、27歳の若さの増元さんが「心臓病で死亡」など、いずれも不自然な説明だった。証拠もなく、家族は「作り話だ」と強く批判した。

 10月15日午後2時19分。平壌を出発した政府チャーター機が羽田空港の要人専用駐機場に到着した。姿を現した蓮池さんら5人の被害者は、タラップ下で待ち構えた家族と涙を流しながら抱き合った。他の被害者家族も「お帰りなさい」などと書いた横断幕を掲げて見守った。

 増元さんの弟照明さん(67)=東京=は振り返る。「5人が帰国できて良かったと思ったけど、半分以上は悔しさだった。なぜ、るみ子がいないんだ」

■世論の力を

 2002年に北朝鮮拉致被害者5人が帰国した後は、5人が残してきた家族計8人と他の全被害者の帰国実現が焦点となった。

 04年5月に小泉純一郎首相(当時)が再訪朝し、北朝鮮は家族の帰国と被害者の再調査を約束。家族8人は日本移住がかなったものの、北朝鮮は同年11月、再調査の結果として「他の日本人は8人死亡、2人未入国」と2年前と同じ説明に終始した。

 北朝鮮は01年に凍結を表明していたミサイル発射を06年に本格再開。初の地下核実験にも踏み切った。日本は禁輸などの制裁を実施した一方、拉致問題の協議は断続的に続けた。

 北朝鮮は何度も再調査に合意し、被害者家族は繰り返し解決への期待を高めた。だが16年、4回目の核実験に対する日本の制裁強化に反発し、調査の全面中止を表明した。18~19年の2回の米朝首脳会談後も日朝交渉は進んでいない。

 この間、国内では被害者家族と支援者が署名活動や集会を地道に続けた。県内の被害者市川修一さん=失踪当時(23)、増元るみ子さん=同(24)=の家族らも奔走した。

 帰国した5人は、被害者の北朝鮮での様子などを証言した。

 新潟県柏崎市の蓮池薫さん(65)と共に拉致された妻の祐木子さん(66)は約1年間、増元さんと同じ住まいで暮らした。2人は気が合い、よく一緒に過ごしたという。薫さんは「拉致というすごい衝撃の中で1年一緒にいたことは、互いにとてもありがたい存在だったと思う」と話す。

 拉致の疑いがある「特定失踪者」が注目を集めるようになったのも5人帰国が契機だった。翌03年、民間組織の特定失踪者問題調査会が発足した。鹿児島県関係では、1971年に行方不明となった大崎町の園田一さん=当時(53)、妻トシ子さん=同(42)=と、妹が県内在住で93年に千葉県で消息を絶った田中正道さん=同(44)=らを「拉致の疑いが濃厚」としている。

 被害者5人の帰国から20年。ほかの被害者は1人も帰らないままだ。増元さんの弟照明さん(67)=東京=は「政府の動きが鈍り、拉致が報道されることも減った」と指摘。自治体に対して「県民が拉致されている。動かない政府への働き掛けを強めるべきだ」と苦言を呈する。

 市川さんの兄健一さん(77)=鹿屋市=は「特定失踪者を含めた被害者全員の一括帰国でなければいけない。20年前と同じ世論の力が必要だ」と訴える。

(連載「再会信じて 北朝鮮拉致5人帰国20年」より)

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