【考・九州男児】初登場は明治時代か 士気を鼓舞? 日清戦争時に増えた使用例 国立国会図書館のデータから読み解く

 2022/11/19 08:00
「九州男児」(青)と「九州男子」の出現比率(1968〜1945年)
「九州男児」(青)と「九州男子」の出現比率(1968〜1945年)
 「九州男児」という言葉は、いつから使われているのか。国立国会図書館が実験的に提供している検索・閲覧サービス「次世代デジタルライブラリー」で分析したところ、主に明治時代〜終戦前の収録図書約28万点の中で、確認できた最も古い使用例は1884(明治17)年だった。その後、94年の日清戦争に合わせて使用例が増加。兵士の戦いぶりなどで言葉が頻出していたようだ。

 西日本新聞は1981年元日付紙面で「九州男児」に関する特集を掲載。記事の中で国立民族学博物館教授(当時)の文化人類学者、故・祖父江孝男氏は「誰が、いつ初めて使ったかになると、その記述はない」とコメントしていた。

 次世代デジタルライブラリーは図書のテキストを文字データ化して収録。「花王樹草紙」とある1884年の読み物に<根強き性根の九州男児>という記述があった。前年の83年には「復讐(ふくしゅう)晴霧島」という書には<大丈夫が始(はじめ)あって終(おわり)なきは九州男子の恥なるべし>という言葉も。さらに明治期〜戦前では「九州男児」より「九州男子」の使用例の方が多い傾向だったことも分かった。

 「九州男児」が多く使われるようになったのは日清戦争開戦後の95年。同年の「日清軍記続編」には「九州男児」という小項目があり、<我が軍はいずれも九州男児なり、武勇においては日本全国に並ぶものなしと聞こゆ>とある。同年創刊の少年向け総合雑誌「少年世界」第2号にも、旅順攻略戦を描いた「九州男子の魂」の項で<彼らは眼中敵なく弾丸なく、ただ死生栄辱の大覚悟あるのみ>と、その“剛勇ぶり”を紹介した。

 1932年の上海事変では、着火した破壊筒を抱えて突撃した、久留米(福岡県)の工兵第18大隊の兵士3人が「爆弾三勇士」としてたたえられ、本紙前身の福岡日日新聞も<天晴九州男児の本懐>の見出しで報じた。
(西日本新聞社提供)