港で母は泣いていた。40歳の夫と15歳の息子を奪った「第六垂水丸」。定員の2倍以上を乗せ出港直後に転覆したのだ〈証言 語り継ぐ戦争〉
2023/02/21 11:00

沈没後に引き上げられ「第一垂水丸」として改修された第六垂水丸(垂水史談会提供)
1944(昭和19)年2月6日、垂水と鹿児島を結んでいた定期旅客船「第六垂水丸」が、出航直後に垂水沖で転覆した。540人ほどが亡くなり、その中には父の弘=当時40歳=と兄の達哉=同15歳、伯父ら5人が含まれていた。
他の船が軍に徴用されたり燃料不足だったりして、1日12往復していた定期船は4往復に減っていた。そこに鹿児島市にある兵舎の面会日が重なり、定員の2倍を超える700人以上が乗っていた。
青年学校に通っていた達哉は少年通信兵として6日に出征することが決まっていた。「鶴川家初の栄誉」と親戚中が喜び、5日夜には祝宴を開いた。翌日、父たちは出征する達哉を鹿児島駅で見送るために乗船した。
私は当時7歳で、国民学校1年生。父から「日の丸の旗を持って帰れ」と言われて出航を見ることなく、旧垂水港から2キロほど離れた上原田地区の自宅まで走った。
家に着くと、いとこが「垂水丸が転覆した」と騒いでいた。驚いて持っていた旗を縁側に放り投げ、来た道を戻った。
途中、顔見知りの若い女性に声をかけられた。転覆した垂水丸に乗っていたと話した。女性は船の傾く方向の反対へ移動しながら、ひっくり返った船腹に立っていたところを助けられたという。
話もそこそこに、港に向かった。母たちが泣いていた。六つ上の兄・義人が「父さんたちは甲板にいた。船は後進した後、右にかじを切って転覆した」と教えてくれた。実は義人も一緒に乗る予定だったが、出航に間に合わなかったため、命拾いをした。
大工だった父は、酒は飲まないがにぎやかな性格で、たばことウナギ捕りが好きだった。達哉は物静か。学校から帰ると腹ばいになって新聞を読んだり、指でモールス信号をたたいたりしていた。
達哉の遺体は当日の夕方、父や伯父らは8日に帰ってきた。達哉の両手は犬かきをするような形で固まっていた。遺体の手を合わせる余裕は、混乱する現場にはなかったのだろう。成績優秀で、捜索に加わった担任が「惜しい子を亡くした」と言ったことを覚えている。
私は8人きょうだいで、長男は2歳で早世、長女は46年に19歳で亡くなった。夫と次男も失った母ムラは5人の子どもを育て、88年に84歳で亡くなった。兄たちは戦死ではないので恩給はなく、生活は苦しかった。ふすまにイモを入れた団子ばかり食べていた。
母から生活苦に対する愚痴をほとんど聞いたことはない。ただ晩年、私の妻の和子(84)には「一家心中しようとしたことが3度ある」と打ち明けたという。「どこへ行くのか分からず、にこにこしながら付いてくる子どもたちを見て思いとどまった」。筆舌に尽くし難い母の苦労と心中を思うと、胸が締め付けられる。
後に垂水丸は引き上げられて「第一垂水丸」として再就航した。鹿児島まで乗る機会があったが「これで父と兄が死んだ」と思うと恐ろしかった。
その後は県の職員になり、漁業指導取締船「制海」の船長を務めるなど、42年間船乗りとして働いた。転覆は戦争があったから起こった悲劇だ。子どものころ、貧しい生活に「父や兄が生きていれば」と何度も思った。戦争だけはしてはならない。
◇
第六垂水丸遭難事故の資料展を、垂水市立図書館で28日まで開催中(月曜休館)。
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