中国をにらみ、奄美では自衛隊分屯地の増強が進む 太平洋戦争では要塞化した歴史「瀬戸内の動きから世界が分かる」

 2023/02/28 08:29
加計呂麻島に残る砲台跡で戦争体験を振り返る福山哲也さん。ここから大島海峡が見渡せる=瀬戸内町渡連(片野裕之撮影)
加計呂麻島に残る砲台跡で戦争体験を振り返る福山哲也さん。ここから大島海峡が見渡せる=瀬戸内町渡連(片野裕之撮影)
 木々がうっそうと茂る鹿児島県瀬戸内町手安(てあん)の山中。裾野に開いた入り口を進むと、厚いセメントとさびた鉄骨で覆われた大きな箱形の構造物が現れた。満州事変後の1932(昭和7)年、旧陸軍が造った弾薬庫だ。

 弾薬は眼前に広がる大島海峡を通って、各地の砲台などに運ばれた。海峡は奄美大島と加計呂麻島に挟まれ、幅は約2~3キロ。約20キロにわたってリアス式海岸が続き、水深約50~70メートルと深く、波は穏やか。このため一帯は「天然の要塞(ようさい)」として利用されてきた。

 日清戦争の3年前に石炭庫が置かれたのを皮切りに、日露戦争前後に監視や停泊地として増強。太平洋戦争で機能を広げ、有数の軍事拠点になった。175の遺構が残り、「奄美大島要塞跡」として国史跡に指定される見通しとなっている。

 戦跡を調査した聖心女子大の土田宏成教授(日本近代史)は大国と向き合う要所となった歴史を踏まえ、「瀬戸内の動きから世界の流れが分かる」と指摘する。

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 その町に、海洋進出を強める中国をにらんだ日米の部隊が相次いで訪れる。昨年10月、陸上自衛隊幕僚長と米太平洋陸軍司令官は上空から周辺を視察。陸自瀬戸内分屯地や古仁屋港を見つめ、親指を立てて何度もうなずきあった。

 分屯地では弾薬庫5棟の工事が続き、古仁屋港は補給・輸送の拠点化に向け約6億円をかける調査が始まる。急ピッチで進む防衛整備を鎌田愛人町長は「国防に協力したい」と歓迎。有力視される敵基地攻撃能力(反撃能力)を担うミサイルの配備にも賛成を明言している。

 背景のひとつには人口減がある。終戦後に2万6000人いた人口は8400人となり、奄美5市町村の中で最も減った。町議らは「隊員の増加は町の悲願。反対はほぼいない」と口をそろえる。

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 過疎にあえぐ「離島の離島」の同町・加計呂麻島に住む福山哲也さん(87)も部隊強化に賛成する。ただ、あくまで「戦争抑止のため」で、十分な議論がない大転換には危うさを感じている。「民主主義のなかった昔と同じ過ちを繰り返さないだろうか」

 かつて町の要塞化は住民に知らせないまま進んだとされる。その後の戦争で目にしたのは、米軍との圧倒的な戦力差と食糧難。大戦末期の空襲で多くの民間人や兵士が死んだが、頑丈な軍事施設は形を残した。「守ってくれるものはなく、必死に逃げた」と振り返る。

 「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなる」。同島に特攻艇部隊の隊長として赴任した作家の島尾敏雄はこう書き残した。戦争という極限状態を知る人たちの警鐘は令和の今、再び重みを増している。

(連載「盾から矛へ 安保激変@奄美」2回目より)