集団自決した幼なじみの墓を「郷里の石」で作った元従軍兵。200キロ離れた終焉の地へ荷車ではるばる…西南戦争の「戦友秘話」明らかに

 2023/05/14 20:38
熊本県玉名市に残る加治木石で作られた薩軍兵「東楠薗利助」の墓
熊本県玉名市に残る加治木石で作られた薩軍兵「東楠薗利助」の墓
 明治10(1877)年の西南戦争で、熊本県玉名市で自決した鹿児島県・加治木出身の薩軍兵の現地に残る墓が、郷里の加治木石(桃木野石)で作られていたことが分かった。共に従軍した幼なじみが戦後、地元で墓を作り、約200キロ離れた終焉の地まで荷車で運んでいた。墓石を調査し、“友情秘話”を明らかにした熊本高専元校長で玉名歴史研究会の宮川英明さん(77)=玉名市=は「戦死した友人のため、はるばる運んだことを思うと万感胸に迫る」と話している。

 薩軍の加治木隊は明治10年2月26日、激戦として知られる「高瀬の戦い」(玉名市)で政府軍の一斉射撃で逃げ場を失い16人が集団自決した。その後、現地にはただ一つ「東楠薗利助之墓」「鹿児島県加治木反土村 奉献 有村與助」などと刻まれた墓石が残されており、同隊3番小隊の弓場利助(次助)のものとされていた。

 宮川さんが昨年、ひ孫にあたる弓場廣行さん(75)=姶良市加治木町木田=や、有村のひ孫大内山節子さん(75)=同=の聞き取りをした結果、有村が加治木で墓石を制作し、埋葬地まで運んだと伝わっていることが判明。石材鑑定を鹿児島大学の大木公彦名誉教授に依頼し、加治木石の一つ「桃木野石」であること突き止めた。名前も加治木独特の崩し字で刻まれていた。弓場さんによると、利助の本名は次助という。

 有村は西南戦争では5番小隊に所属。高瀬と近い田原坂などで戦っていたとみられ、宮川さんは「利助の戦死の情報は、友達だった有村には伝わっていた可能性が高い」とする。現地で供養された集団自決の兵士の遺骨は、明治11年には遺族に引き取られたとされる。だが利助の遺骨が現地に残されていることを知った有村が、友人のために郷里の石で墓を作ったと宮川さんは推測する。

 墓には明治12年3月に作られたことが記されている。「東楠薗」は利助の幼少期に名乗っていた養子先の姓で、有村も当時同家の近くに住んでおり、2人は幼なじみだった。

 墓石は高さ約42センチ、幅21センチ、重さは約26キロ。台座は幅約40センチ、厚さ8.5センチ、18キロ余りあり、合計で45キロ近くになる。加治木から玉名まで当時の道をたどると約200キロあり、荷車を引きながら10日はかかったとみられるという。

 「西南戦争で最大の集団自決と友情物語を鹿児島でも知ってほしい」と話す宮川さんは4月、桃木野石の調査で加治木を訪れ、2人の子孫と面会した。弓場さんは「しっかりと事実が分かって良かった。2人の友情を語り継いでいきたい」。大内山さんは「友人思いの立派な曽祖父だったと思う。自分は生きて戻っても、幼友達のことが心に残っていたのだろう」と話した。

■「白石」と「黒石」

 加治木で切り出された「加治木石」の多くは、火山活動にかかわる溶結凝灰岩で、硬くて耐久性のある「白石」と、緻密で加工がしやすい「黒石」に大きく分かれる。性質に合わせて、石塀や墓石、田の神像のほか、灯ろうなどにも利用された。

 「白石」として知られるのは、加治木町日木山の蔵王岳近くで採れる「二瀬戸石」。約60万年前の鍋倉火砕流に由来し、空隙が多く黄みを帯びて白っぽい。多くは石垣や塀、建築に用いられ、東京の初代帝国ホテル玄関や鹿児島市の中央公民館に使われた。姶良市内では脇元に国登録有形文化財の白金酒造石蔵が残る。西南戦争では西郷隆盛が立ち寄り、焼酎を買い占めた逸話も伝わる。

 一方、軟らかく黒色の「桃木野石」は、風雨にさらされると表面にシリカの膜ができるため風化に強い。加工しやすく墓石や田の神像に多く使われた。約11万年前の阿多火砕流の堆積物で、加治木町西別府の桃木野、桑迫地区には採石の跡や採掘洞が残る。

 加治木産の石は他に、加治木町木田の国史跡「龍門司坂」の石畳を敷くために切り出された「樋ノ迫石」が知られる。33万年前の加久藤火砕流の堆積物で灰色。近くの樋ノ迫山で採れ、工事の安全祈願をした18世紀のほこらが残る。西南戦争では、薩軍はこの石畳を通り熊本方面に向かった。