バス襲う匪賊、女性を連れ去るソ連兵…「全滅しかない」。自決覚悟の私に島根の「西原」さんが言った…「死ぬ必要はない。日本に帰れる」。命の恩人だ。【証言 語り継ぐ戦争】
2023/08/12 11:47

「自決を覚悟し、みんなで水杯を取った」と語る長野サチエさん=曽於市末吉町深川
1924(大正13)年、農家の長女に生まれ、深川(現曽於市)の学校を出てから両親の手伝いをしていた。20歳のとき、鹿児島県の開拓団として満州(現中国東北部)に行っていた、いとこの長野米治さんと結婚することになり、迎えに来た米治さんと一緒になった。
終戦1年前で、今のような結婚式はできず、親きょうだい10人ほど集まる宴。新郎新婦とも普段着だった。それまで米治さんと親しく話したことはなかった。
間もなく開拓団のある満州に渡ることになったが、正直なところ行きたくなかった。当時の雑誌には、満州の良いことばかりが書かれていたが、旅立つ直前、母からいたくなかったら帰ってこいと、そっと旅費を渡されたことを思い出す。満州に到着したものの、待っていたのは新婚生活ではなかった。というのも、夫には召集令状が届いていて、すぐに陸軍に入隊したからだ。
私はそろばんができたので、軍の物資を扱う販売所で事務職の仕事に雇われた。毎日の食事は内地より良かった。豚肉や鶏肉などがあったし、ジャガイモや白菜など野菜も食べられた。
そんな日々の中、45年の確か8月12日に軍から日本人に対して即時引き揚げ命令があり、方々から着の身着のまま人が集まって来た。戦争に「負けた」と知ったのは17日になってからと記憶する。ソ連兵がバスに乗って続々と乗り込んで来た。盗賊の匪賊(ひぞく)も出没していた。日本人はもう全滅するしかないと、集団自決を覚悟した。
服毒用の毒薬を病院に取りに来いと言われたり、軍が用意した自決用の手りゅう弾を持たされたりした。夜な夜な、手りゅう弾が爆発する音が聞こえ、夫婦連れなどが次々に死んでいった。そんなとき「死ぬ必要はない。日本に帰れる」と隣の開拓団の日本人から聞かされ、4里(約16キロ)離れた場所に移った。島根出身の「西原」という人で命の恩人だ。移動中、知り合いの3歳の女の子をおぶって歩いたが、何も食べ物がなく、その子は死んでしまった。
移動先にもソ連兵がいた。暴行目的で力ずくで女性を連れ去る。みんなで円陣を組んで抵抗したが、連れて行かれた人もいた。「助けて」と叫ぶ声が思い出される。苦い経験だ。
その後、中国人に助けられ、しばらく中国人の5歳の子どもの子守などをして過ごした。帰国したのは46年10月。米国船で博多に引き揚げてきた。コレラ患者がいたらしく、1週間は沖合で停泊させられた。
敗戦後、米治さんはソ連のチタ州モロドイ収容所に抑留され、シベリアで強制労働。49年9月にようやく帰国した。離れ離れになって6年ぶりの再会だった。戦死した親戚もいたし、喜ぶどころではなかった。戦後、タバコを栽培したり、カライモを作ったりして生きてきた。
ウクライナの戦争で、住民が逃げ回っている姿をテレビを見ると、あのときの自分自身の姿と重なる。戦争は、ばかげている。あんな思いは誰にもさせたくない。
(2023年8月12日付紙面掲載)
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