陸軍兵1500人を乗せた「あらびあ丸」に魚雷が命中 二等航海士の私は海へ飛び込んだ おびただしい浮き仏と油…一晩中泳いだ 顔を上げるたび人が減った
2023/10/02 10:00

航海士の戦中体験を話す図師布二男さん
今から六十二年前の一九四四(昭和十九)年十月十八日正午前、マニラ沖を航行中の日本船団が米潜水艦の攻撃を受け、次々に沈没した。その中の一隻が、陸軍兵士千五百人、武器弾薬、食料を満載する旧大阪商船の貨物船「あらびあ丸」(九四八〇トン)だった。私は二等航海士として門司港から乗り込んでいた。
攻撃を受けたときは甲板にいた。前を行く船が国旗を揚げながら海に消えるのを見た。あらびあ丸もまず機関室に魚雷一発が命中。二発目が前部ハッチに当たり、衝撃で甲板の上に何もかもが吹き上げられた。船は横転。甲板が傾き、沈んでいく。私は海中に飛び込み、かろうじて救命艇に移った。その目の前で本船が沈んでいった。油の海におびただしい浮き仏。悲惨だった。
救命ボートには初めは四十五人ほどが乗っていたが、夜半に転覆し、しけの闇に投げ出された。ボートにしがみつき、何度も海に沈みながら一晩中泳いだ。顔を上げるたび人が減った。翌朝、ないだ洋上には六人しか見あたらなかった。
日没直前、偶然にも近くを航行中の駆逐艦「竹」に救助された。九死に一生を得たのだが、一人の操だ手が、夜になって亡くなった。極限状態だった精神と肉体が、助かった安心感でゆるんだのか…。命の恩人である当時の「竹」艦長とは、八九年に四十五年ぶりに再会できた。
航海士として、さまざまな体験をした。世界一周航路の貨客船として三九年に完工した旧大阪商船の「あるぜんちな丸」(一二、七五九トン)が海軍省に売却され軍艦になった後は、この船で米兵捕虜の輸送や、基地強化の補給作戦、学徒出陣の大学生を横浜から台湾・高雄港へ輸送する任務などに当たった。
終戦後、定年まで船の仕事に携わった。生き残り、重荷を背負って、現世をどう生き抜いたら心の底に沈む寂寥(せきりょう)感が消えるのか悩みぬいた。自分が体験した戦いの現実を、ありのままに残したいと思う。
(2006年9月10日付紙面掲載)
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