裕福な満州暮らしはソ連侵攻で一変した。失業、母と赤ん坊の死…引き揚げ後もひもじかった。父は死ぬ間際に明かした。「妹を海から投げ捨てようと思った」と。感謝しかない。〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2023/10/02 08:27
引き揚げ後間もない頃の体重や身長が書かれた学校の通知表を見る鶴田次夫さん=鹿児島市宮之浦町
引き揚げ後間もない頃の体重や身長が書かれた学校の通知表を見る鶴田次夫さん=鹿児島市宮之浦町
■鶴田次夫さん(87)=鹿児島市宮之浦町

 1936(昭和11)年1月、鹿児島市川上町で4人きょうだいの2番目に生まれた。父・榮蔵は市電の運転手。私が6、7歳の頃、日本のかいらいだった旧満州国(今の中国東北部)で父が電車の運転手の仕事をするため、家族全員で鞍山市に移り住んだ。

 入居したのは、5階建てアパートが20棟ほど連なる日本人だけの団地。生活には余裕があり、スケートやスズメ取りで遊んでいた。

 近くに住む中国人の子どもたちがよくアパートのごみをあさりに来た。ある日、焼却炉に中国人が入った時、友人と共に扉を閉めて鍵をかけた。「貧しくて盗みをするような中国人はいじめてもいい」という感覚。罪悪感はなかった。

 太平洋戦争の戦況が悪化すると、家の近くにも米軍機が飛来するようになった。あちこちの道路脇にコールタールが置かれ、燃やすと真っ黒な煙が周囲を覆う。標的を隠すためだが、米軍機の爆撃が襲う中、上空が見えないまま走って家に帰るのは生きた心地がしなかった。

 45年8月9日、ソ連が満州に侵攻。一度だけ、鞍山の街中を歩くソ連兵を見た。腕にはいくつもの腕時計をつけていた。

 この頃から髪の毛がない女性が増えた。街をうろつくソ連兵に襲われないためだったと、後で知った。

 敗戦後、生活は一変した。父は仕事を失い、誰からか習った豆腐作りを始めた。私たち子どもも手伝い、バケツに豆腐を入れて売り歩いた。まだ多くいた日本人が買ってくれた。

 敗戦からちょうど1カ月後の9月15日、母の出産がうまくいかず、出血多量で亡くなった。赤ちゃんも10日後に肺炎で死亡した。食糧は少なく、まともな医療体制はなかった。

 ソ連軍撤退後の翌年春、鞍山を巡る中国国民党軍と八路軍(共産党軍)の攻防が始まった。街近くの山の尾根で、兵士が銃を構えて撃ち合っていた。流れ弾だろうか、撃たれて死んだ市民の遺体が道端に転がっていた。治安が悪化し、事故や病気で死んだ人たちも放置されるようになった。初めて見た時はびっくりしたが、だんだんと「こんなもの」と慣れていった。

 鞍山を離れたのは敗戦から約1年後。父と子ども4人で列車に乗り、引き揚げ船が出るコロ島に向かった。「ついに日本に帰れる」と期待したが、順番待ちで1カ月待つことに。つらかったのか、記憶はあまりない。穴を掘り、四方に立てた棒にむしろが張ってあるだけのトイレと、配給のジャガイモを食べていたことだけを覚えている。コレラがまん延していたが、幸い家族は感染しなかった。

 輸送船に乗り、九州北部に上陸して川上町の実家に戻った。3歳だった妹のおなかは栄養失調で大きく膨れていた。

 帰郷後も困窮は変わらず、ひもじい思いが続いた。家で飼っている牛の餌も食べた。それでも、小学6年から中学1年の間に身長は1センチしか伸びなかった。

 75年、父が66歳で他界する間際、「引き揚げる途中、妹を海に投げ捨てようと思っていた」と打ち明けた。多くの中国残留孤児が出た中、子ども全員を連れ帰ってくれた父には感謝してもしきれない。

 私たち日本人は中国を侵略し、ひどいことをしてきた。中国人が日本に負の感情を持つのは当たり前だ。日本では加害の歴史をあまり教えないが、それを知らなければ他国の気持ちは分からない。二度と戦争をしないために、互いを理解し合う努力が必要だ。

(2023年10月2日付紙面掲載)

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