「高千穂降下部隊」に配属された兄。重装備の落下傘開発に尽力した。フィリピン出撃の日。兄が乗った飛行機は実家上空で白いマフラーを落とし飛び去った〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/09/19 11:00
陸軍士官学校を卒業し、入来に帰郷した尾畑耕平さん(後列左)。隣が母タケノさん
陸軍士官学校を卒業し、入来に帰郷した尾畑耕平さん(後列左)。隣が母タケノさん
■尾畑雄平さん(86)大阪府阪南市箱作

 中学卒業まで入来町副田(現・薩摩川内市)で生まれ育った。男5人、女2人の7人きょうだいの末っ子。父は私が生まれる前に亡くなった。物心ついた頃、16歳離れた四男の兄耕平は東京・市谷の陸軍士官学校にいた。学校では先生たちから「お前の兄さんは成績優秀で実に立派だった」とよく聞かされた。

 士官学校の卒業祝いに近所の料亭の主人が軍刀を贈ってくれることになり、一度入来に帰ってきた。私が4、5歳の頃だっただろうか。「よく勉強して立派な軍人になれ」と頭をなでられた。耕平と接した唯一の記憶だ。

 耕平は千葉・習志野の騎兵16連隊に入り、旗手を務めた。旗手に任命されるのは原則として士官学校の首席卒業者で、体格など容姿も重要視されたと最近になって知った。

 戦局が風雲急を告げ「これからは騎馬より空」と考えたのだろうか。母タケノや長兄徹夫から聞いた話では、志願して宮崎・新田原の落下傘降下部隊(通称高千穂降下部隊)に配属された。すると当時の上司に、重装備での降下を可能にする研究を命じられた。軽装では降下中に銃撃されてしまい、機関銃を携行できるようにする必要があった。

 耕平は宮崎と市谷の陸軍本部を何度も往復しながら開発に尽力。隊員だった田中賢一氏の著書「高千穂降下部隊」には、同僚の制止に「危険を恐れて戦争ができるか」と、約30キロもある機関銃の銃身を体に縛り付け、自ら降下実験に挑んだ話が記されている。

 「あざや股関節脱臼など生傷が絶えなかった」と、耕平が当時寄宿していた家のご夫妻にも聞いた。軍は都農町にあったこの家を将官官舎として借り上げていた。

 新型落下傘が完成すると、部隊は「航空挺進(ていしん)隊」と呼ばれ、活躍した。同僚や部下が次々と前線に向かい、自身の出撃も近いと感じたのだろうか。母を官舎に招く軍事郵便が届いた。

 当時、入来から鉄道で10時間以上かかる道のり。母は落下傘に使えるようにとかき集めたありったけの絹布を持って、世話人と一緒に向かった。耕平は身辺を整理しており、寄宿先や故郷の人々に渡してほしいと形見の品を母に託した。

 母が帰ってきて程なく、フィリピンへの出撃決定を知らせる軍事郵便が届いた。「入来の上空を旋回し、マフラーを落として行く。これが母上や郷里の皆さんへの最後の別れと覚悟してほしい」との内容。それからというもの、空に爆音が響くと、母は私の手を引いて外へ出た。「耕平兄さんかも」。見上げた光景が今もくっきりと頭に浮かぶ。

 何度目か、年月日は覚えてないが、家の上空を2、3回旋回し、白いマフラーを落とした飛行機があった。マフラーを追いかけたが、飛行機の後を追うように遠くに飛んで行ってしまい、拾うことはかなわなかった。

 耕平には思い人がいた。新田原の事務所でタイピストとして働いていた女性で、相思相愛だったようだ。いよいよ出撃という時、その女性に「今日飛び立ちます」と声を掛けて立ち去ったという。後から聞いた話だ。
広告