病の妹を迎えに38度線を越えた両親。間もなく南北分断で離ればなれに。姉と弟と3人、北朝鮮からの引き揚げが始まった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/09/25 11:00
「生活に戦争が入り込んだ子ども時代だった」と振り返る山本幸子さん=鹿児島市東坂元1丁目
「生活に戦争が入り込んだ子ども時代だった」と振り返る山本幸子さん=鹿児島市東坂元1丁目
■山本幸子さん(96)鹿児島市東坂元1丁目

 20歳の時、朝鮮半島北西部の水豊(現北朝鮮)で終戦を迎えた。両親と離ればなれとなり、妹と弟を連れて北緯38度線を歩いて越え、日本に引き揚げた記憶は色あせない。

 延岡市で生まれた。2歳の時、父が朝鮮窒素肥料(チッソの前身)で働くことになり、興南へ。東京駅のような赤れんが造りの団地が社宅だった。冬はスキーができるほど雪が積もったが、スチーム暖房が備わる室内では浴衣1枚で過ごせた。

 満州事変が起きた1931(昭和6)年、尋常高等小学校に入学。大陸に向かう兵隊さんを見送るため、近くの駅に日の丸の旗を持ってよく通った。37年、高等女学校に進学。この頃はまだ英語も学べた。鴨緑江の発電所やダムが立つ水豊の付属病院へ父が異動となり、3年の途中で新義州の学校へ転校。空襲はなかったが、バケツリレーなど防空演習を繰り返した。夏休みの宿題は戦地に届ける慰問袋やふんどし作りだった。

 41年12月8日の太平洋戦争開戦時、東京・渋谷の実践女子専門学校(現実践女子大学)1年だった。朝、寮の食堂でラジオニュースを聞いた。思わず友人と顔を見合わせ、いつもとは違う重苦しい雰囲気に包まれた。新聞などで米国との戦争が始まる気配を感じていた。「そんなに多くの国と戦って大丈夫かしら」と不安になった。何より外地の両親から送金が途絶えないか心配した。通学途中、家々から繰り返しラジオが流れていた。平常授業だったが何となく落ち着かない1日だった。

 当時は映画館でも上映前にニュースが流れ、日本軍が中国戦線で目覚ましい戦果を上げていると報道された。作品も戦時色が強く、国民は次第に洗脳されていった。

 戦中に1人は心細く、専門学校を1年で中退。水豊の両親の元に戻り、父が事務長をしていた病院で薬剤師助手として働いた。終戦後、調合に欠かせない処方箋がハングル文字で書かれるようになった時は大変だった。ソ連兵が病院に来ると待合室で自然とコーラスが始まり、きれいなハーモニーが響いたことも懐かしい。

 終戦の日。重大放送があるとのことで院長の家に集まった。ラジオは聞きづらかったが、「忍びがたきを忍び」という言葉で戦争が終わったと分かった。進駐してきたソ連側は、発電機を分解して国に持ち帰るため日本人技術者を必要としていた。発電所の所長が、協力する代わりに社員や家族に危害を与えないよう約束を取り付けてくれたおかげで、怖い思いはしなかった。

 当時、二つ下の次女恭子は結核に冒され、北緯38度以南の療養所にいた。両親は娘を連れ戻すため苦労して切符を手に入れ、45年8月22日に南へ出発。間もなく南北で分断され、水豊に戻ってこられなくなった。妹は京城(現ソウル)の病院に移り、11月に亡くなった。