引き揚げ後、父が働いていた二日市保養所。ソ連兵に暴行された女性の中絶手術が秘密裏に。「4、5百件」と医師の証言。国も黙認していたようだ〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/09/27 11:00
戦中、朝鮮半島で撮影した山本幸子さん(右)の家族写真
戦中、朝鮮半島で撮影した山本幸子さん(右)の家族写真
■山本幸子さん(96)鹿児島市東坂元1丁目

 1946(昭和21)年9月、引き揚げ船は長崎県・佐世保に到着した。検疫のため港外で1週間停泊後、やっと下船すると、いきなり頭から白い粉を吹きかけられた。シラミを駆除する殺虫剤DDT。息もできず、ひどい仕打ちだと思った。

 女性だけ集められ、「何らかの不幸な目に遭った方は、国が責任を持って秘密を厳守の上、治療して元気な体になって故郷へ帰します。遠慮なく申し出てください」と告げられた。この言葉に救われた人もいただろう。

 父の知人と偶然会い、両親が二日市(現福岡県筑紫野市)で待っていることが分かった。大きな梨を買い、貨車内できょうだい3人、流れる果汁と涙を拭いながらほお張った。未明に着いた博多駅には大勢の人が床やベンチで寝ていた。街も空襲で破壊された建物があちこちに放置されたままだった。

 1年2カ月ぶりに両親と再会。無事に妹と弟を連れ帰り、重い役目が終わったとほっとした。涙も出なかった。

 父は二日市保養所で働いていた。引き揚げ時に旧ソ連兵らに暴行され、妊娠した女性の中絶手術が秘密裏に行われていた。国も黙認していたようだ。

 「戦後50年 引揚げを憶う(続)証言・二日市保養所」(引揚げ港・博多を考える集い発行)という冊子がある。手術に当たった医師や看護師らの思いや写真が掲載されている。医師は「中絶数は4、5百件」と証言する。

 「吸入麻酔薬も入手できず、中絶手術を無麻酔で行った。患者さんは皆、よくぞ苦痛に耐えた」「赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末したがバケツの中で息を吹きかえし泣き声を挙げることも」とも記されている。

 保養所にはトラックで女性が運ばれてきて、中には子連れもいた。父は医療用の物資集めや畑作業の加勢をしていたようだ。私たちは木造2階建ての一室に暮らしており、なるべく患者さんに会わないよう、邪魔しないようにしていた。敗戦でつらい目に遭うのは女性。最近のアフガニスタンのニュースを見ても気の毒でならない。

 2004年に86歳で亡くなった夫の実は戦後、旧ソ連のジョージア(グルジア)に抑留された。日本人捕虜の中にも新しい力関係が生じ、食べ物を巡って本性をあらわにする人もいたという。わずかな食事と過酷な苦役で栄養失調となり、2年で送還。鉄路で運ばれる途中、命を落とした同胞は原野に投げ捨てられていったそうだ。現地では「昔日本人に親切にされた」という住民から夕食に招待されたこともあり、人の真心は国境を超えて通い合うと語っていた。

 夫とは朝鮮半島で家族ぐるみの交流があり、引き揚げの道のりはそれぞれだった。二日市保養所の閉鎖後、父の古里大分県で教員をしていた時、共通の知人から鹿児島に戻って入院していると聞き、見舞いへ。縁あって結婚した。穏やかに過ごせるありがたみを感じる。
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