〈開戦80年〉「不敗の陸海軍を信頼し 勝利の栄誉を輝かせ」 1面に躍る大きな見出し。新聞は真珠湾攻撃を支持した

 2021/12/08 11:05
太平洋戦争の開戦を報じる1941年12月9日付の鹿児島朝日新聞朝刊1面
太平洋戦争の開戦を報じる1941年12月9日付の鹿児島朝日新聞朝刊1面
 旧日本軍は1941(昭和16)年12月8日、米ハワイ・オアフ島真珠湾の米軍基地や艦隊を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。

 「不敗の陸海軍を信頼し 勝利の栄誉を輝かせ」。翌9日、鹿児島朝日新聞朝刊1面に開戦を支持する大きな見出しが躍る。鹿児島新聞夕刊2面には「必勝完遂へ!国民一億総進軍第一日の巨歩を踏む」とある。

 米側は死者約2400人に上り、戦艦アリゾナなどが沈没。日本側は航空機29機などを失い約60人が戦死したとされる。その中には特殊潜航艇で突入した鹿児島市下荒田出身の横山正治少佐=当時23歳=もいた。

 ■軍神

 横山少佐は“軍神”の一人とたたえられ、42年に新聞小説「海軍」のモデルに。43年には映画化された。

 北統一郎さん(92)=同市宇宿3丁目=は横山少佐の実家向かいに住んでいた。「横山少年団」の一員として、はちまき姿で早朝から地域を清掃し国旗を掲揚。多くの通行人が軍神の実家前で頭を下げていた。

 42年2月、国策の「1県1紙」体制で鹿児島朝日新聞と鹿児島新聞が合併し、鹿児島日報に。言論統制下の記事は勇ましかった。45年6月17日の鹿児島大空襲後でさえ、24日付朝刊で柘植文雄知事の「元気で勝抜かう」との言葉を伝えた。

 「助けて」「水を」「お母さん」-。北さんは火の海の中、甲突川になだれ込む被災者の声が忘れられない。学友が犠牲となり、実家も焼けた。それでも日本が勝つと疑わなかった。

 本社が被災し、山手の横穴壕(ごう)に拠点を移した鹿児島日報で働く先輩の姿も目に焼き付いている。「手動の小さな印刷機があるだけ。発行を絶やしてはならないと必死だった」。終戦後の46年2月11日に改題し、再出発した南日本新聞の記者になった。「新聞は国際協調の精神を伝え続けなければ」と語る。

 ■抗議

 元NHK記者の亀之園早苗さん(89)=指宿市=は45年8月15日の敗戦直後、伯父の故外村亀吉が新聞購読をやめたことを覚えている。理由を尋ねると「新聞はうそばかり伝える」と吐き捨てるように語った。

 指宿温泉熱利用園芸組合を創設するなど地域のリーダー格だった伯父。当時、情報といえば新聞かラジオだった。「劣勢になっても事実をねじ曲げ、華々しい大本営発表を流し続けたことへの抗議だろう」と亀之園さん。一方で「伯父自身も戦意高揚を旗振りし、出征兵を送り出したはず。やるせない思いもあったのでは」と思いをはせる。

 亀之園さんも大空襲で幼なじみを失ったが、「最後は神風が吹くと信じていた」と報道の影響力を思い知る。「情報の受け手もうのみにせず、疑問を持った方がいい。行間まで思いを巡らせることが大切だ」

 ◇

 太平洋戦争の開戦から8日で80年。日本人だけでも310万人が命を落とした無謀な戦争はなぜ起きたのか。引き返すことはできなかったのか。二度と惨禍を繰り返さぬよう、鹿児島県内の体験者らの証言や当時の新聞記事から教訓を考える。