「上級生の役目」で弔い行列に参加。白い布に包まれた遺骨を抱いた女性の後ろには幼い子どもたち。万歳が飛び交った出征時とは違う。「お父さんが死ぬのが戦争なんだ」〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2021/12/17 11:08
戦前の教科書の復刻版を手に、当時を思い出す井上悦子さん=阿久根市脇本
戦前の教科書の復刻版を手に、当時を思い出す井上悦子さん=阿久根市脇本
■井上悦子さん(93)阿久根市脇本

 1945(昭和20)年8月15日、阿久根市内の家を訪れた知人に、「戦争が終わった」と告げられた。何で日本が負けるの-。16歳だった私は現実を受け入れられず、夕方まで泣き続けた。

 母はあり合わせの具材でだご汁を作りながら聞いていた。「天皇さまはどげんなっと」。まきを持ったまま尋ねる姿を今も鮮明に覚えている。

 知人の言葉が信じられなかったのは、受けてきた教育の影響だ。小学校から国のために尽くせと教わり、教室には占領地域を色で塗った地図が誇らしげに掲げられていた。

 「日本は強くて偉い国」。心からそう信じていた。

 40年、阿久根尋常高等小学校6年生の時、担任から阿久根駅に向かうよう指示された。戻ってきた戦死者の遺骨を受け取った家族や親戚らと共に、自宅に帰る行列に参加するのだ。一行に加わって弔うのが、上級生の役目だった。

 白い布に包まれた遺骨を抱いた女性。後ろには幼い子どもたちが続いた。誰も話す人はいない。万歳が飛び交う出征時とは一転、静寂に包まれていた。

 その日の帰宅後、「一人も泣いてなかったよ」と家族に話すと母は言った。「晩に泣きやっとよ」。子どもながらに「お父さんが死ぬのが戦争なんだ」と感じた。

 進学した阿久根高等女学校では、3年生の頃から戦局の悪化を肌で感じるようになった。消火訓練、塩たき、防空壕(ごう)の穴掘り…。慣れない力仕事が続いた。

 成績表は4年生の3学期だけ空欄。学徒動員として福岡の飛行機製作所で働いたからだ。

 45年春、同校の教員養成科に入った。阿久根の市街地が空襲に見舞われた8月12日は、校内で草取りの最中だった。空いっぱいに米軍機が飛んでくるのが見えた。

 防空壕に逃げ込もうとしたが間に合わず、渡り廊下に避難した。泣き叫ぶ下級生に覆いかぶさり、伏せ続けた。周囲に機銃掃射の音が響いた。下級生を励ましつつ「撃たれるかもしれない」と死を覚悟した。

 空を見上げると、機体がすぐ近くまで迫っていた。操縦席のパイロットの姿が目に飛び込んできた。歯が見えた。笑っているようだった。

 3日後、終戦を迎えた。何を信じればいいのか、気持ちの整理がつくまで時間がかかった。

 はっきりと分かったのは、戦争は人も自然も文化も全て無にするということ。戦争だけは絶対してはいけないと胸に刻んだ。

 母は89年、88歳で亡くなった。それ以降、8月15日は毎年、だご汁を作って食べている。平和の尊さとあの時代の苦しさを忘れないように。
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