ソ連兵の略奪・暴行が始まった旅順から大連へ。途中、列車の窓から紙を巻いた石が投げ入れられた。「私が帰れるまで元気でいてください」。連行された日本兵。届くかどうか分からない、わずかな望みに託した家族への手紙だった。〈証言 語り継ぐ戦争〉
2021/12/30 11:20

旅順第一尋常小学校のクラス写真。優秀な中国人や白系ロシア人も入学を許されていたという
1931(昭和6)年、満州だった中国・遼東半島の旅順で生まれた。旅順第一尋常小学校生のとき、警察官だった父は南満州鉄道(満鉄)関連の運輸会社に転職し、大連に単身赴任していた。私は母、きょうだい4人と、郊外のリンゴ畑に囲まれた一軒家に住んでいた。
終戦間近の頃、食料事情は悪くなったが、空襲もなく平穏な生活が送れていた。リンゴ畑で働く中国人に配給の砂糖や油を分けたり、沖縄出身の医学生を世話したりしていた母の姿を覚えている。中国人の農園長から「日本は負けそうだ」と聞いていたが、神風が吹いて勝つと信じ切っていた。
1945年8月15日の終戦で一変した。14歳で旅順高等女学校の2年生だった。学校は1週間ほどで閉鎖。ソ連兵が街に来て、略奪や女性への暴行を始めた。
わが家は、末っ子の弟以外はみんな女性。沖縄の学生が見張りに立ち、ソ連兵が来たら知らせてくれた。家族で裏口から逃げ、リンゴ畑で息を潜めた。3歳の弟に「見つかるから、泣いたらだめよ」と言い聞かせた。ソ連兵は毎日のようにやって来た。どうなるかとおびえる日々だった。1週間ほどして、出張先の新京で終戦を迎えた父が帰ってきた。
9月上旬、日本人は旅順を出て大連に行くよう命令された。農園長が、料理を振る舞い、駅まで見送ってくれた。石炭貨物車は、日本人でいっぱいだった。
ある畑に差し掛かったとき、列車の窓を開けるように言われた。紙を巻き付けた石が一斉に投げ入れられた。ソ連兵に連行され、労働していた日本兵によるものだ。私が拾った紙には、青森の住所と「私は元気で働いています。帰れるまで元気でいてください」という、家族への言葉が書かれていた。
日本に届くのは、運良く列車の窓から入った手紙だけ。それでも、わずかな望みをかけて託す姿に涙がこみ上げた。列車から「頑張ってください」と、懸命に手を振った。
大連では、中国語ができた母は、日本人が着物を売るのを手伝って稼ぎを得た。再会した女学校の同級生数人は、丸刈りで男の格好をしていた。ソ連兵から身を守るためだった。
「日本人は四等国民」とさげすまれた。日本人が経営する工場が襲撃されたこともあった。それまでの恨みを晴らそうとしていたのだろうか。一方で、困窮する日本人に「子どもはこちらで育てるから売ってくれ」という中国人もいた。
46年11月、大連港から引き揚げが始まった。4カ月後、長崎の佐世保港を経由し、両親の故郷・東市来に帰った。帰国後、兵隊さんから託された手紙を青森に送ったが、消息は分からない。
子どもの頃は「支那人(中国人)より日本人が上」という感覚が一般的だったと思う。日本人は満州事変や支那事変(日中戦争)を経て、増長していたのかもしれない。戦争がなぜ起こったのだろうか。90歳になった今も、しばしば考える。
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